前記事で引用した高橋慶吾のプロフィールから、気になる点などを考えていきたいと思います。
まずは「少年時よりキリスト教信者だった」という点から。これは前記事で引用した「えさし☆ルネッサンス」様の他にも「校本宮沢賢治全集」をはじめとした数々の賢治研究関連書籍にも記されています。

「少年時」というと大体7〜8歳から15〜16歳くらいを指すようですね。これに従って考えると、高橋が7歳頃である年は1913(大正2)年〜1914(大正3)年、16歳頃である年は1922(大正11)年〜1923(大正12)年となります。
つまり「高橋は1913(大正2)年〜1923(大正12)年の間にキリスト教徒となった」ということになります。が、上田哲さんは「「宮澤賢治伝」の再検証(二)ー<悪女>にされた高瀬露ー」でこういった記述を以下のようにバッサリと切り捨てています。
『校本宮沢賢治全集』(第十三巻書簡)の「受信人索引(付・略歴)」の「高橋慶吾」の項に<少年時よりキリスト教信者だったが>と記載されているが誤りである。花巻のバプテスト教会の在籍名簿には会員としての記録はない。高橋は東京に一時行っていた時期があり、その時他のプロテスタント教派で受洗して、花巻には自分の所属教派の教会がない場合客員会員としてバプテスト教会に所属したことも考えられるので調べたが、その記録もない。
上田哲「「宮澤賢治伝」の再検証(二)ー<悪女>にされた高瀬露ー」 1996(平成8)年

出身地の稲瀬村(現・岩手県北上市)周辺で受洗したという記録さえもない…ようだね。「高橋がキリスト教徒だった」というのはガチのデタラメだったんだ…。
上田さんは上記引用のあと花巻地方でのキリスト教伝道は挫折の繰り返しであり、1910年代後半に入るまで積極的な伝道は行われなかったこと、花巻でのキリスト教伝道に関して郷土史家がデタラメを伝えそれを一部の賢治研究書が引用していることなどを記しています。
高橋と露さんの名前が登場する部分を以下に引用します。
浸礼教会(バプテスト)は盛岡をベースに岩手県北への伝道に力を入れていたが、一八九七年遠野の開拓伝道をはじめた。この遠野の夏期伝道で活動した佐藤卯右衛門神学生は牧師となって一九〇六年五月遠野に定住牧会した。
上田哲「「宮澤賢治伝」の再検証(二)ー<悪女>にされた高瀬露ー」 1996(平成8)年
この新進気鋭の佐藤牧師は花巻地方のバプテスト教会の復活に意欲をもち一九〇八年頃から巡回伝道をはじめまた、この派の盛岡の教会(現在の教団の内丸教会)からの教職でない熱心な信徒の篤志伝道も断続的にあった。折からの<大正デモクラシー>の気運は保守的な花巻でも若い人々の間におよびキリスト教会の雰囲気に惹かれ集るようになって来た。高橋慶吾もそういう中の一人であったらしい。ただ花巻のバプテイスト教会が巡回教会から独立した教会として定着するのは一九三〇年ごろでその基礎作りをしたのは林文太郎牧師、阿部治三郎牧師である。高橋慶吾が出入りし、高瀬露が洗礼を受けたのは佐藤卯右衛門の巡回教会時代である。ただ日本社会の一般的な道徳観にくらべかなり厳しいキリスト教倫理を受け容れ、イエスを受肉せる神子キリストと福音的信仰告白をして受洗に至る者は少なかった。高橋慶吾も信仰には至らないで教会を離れていったのである。

露さんが巡回教会で洗礼を受け信徒となったのは1921(大正10)年で、当時の高橋は満14歳か。先に露さんがキリスト教との関わりを持ち、高橋が巡回教会に出入りするようになったのは露さんが洗礼を受けた前後なんじゃないかと考えられますね。
また上田さんは高橋の知人から詳しい人物像を聞いており、以下のように記しています。
高橋慶吾を戦前から知っている、第一次『イーハトーヴォ』以来の菊池曉輝主宰の「宮沢賢治の会」の会員で『農民芸術』その他に賢治についてのエッセイを寄せている鏑慎二郎は、「あの人は、新しいことが好きで理想主義者だが、足が地についていない感じもしました。」と語った。職業も転々としていたこともあって鏑だけでなく彼を知る人は余り信用していなかったようである。ある時期賢治の高弟を自称していて一部では反感も持たれていたという。
上田哲「「宮澤賢治伝」の再検証(二)ー<悪女>にされた高瀬露ー」 1996(平成8)年
高橋の人となりを一言で表すと「自己顕示欲が強い軽薄な人物」。露さんとは全く正反対の性質の持ち主だということになります。

前記事でプロフィールを見た時に何となく浮かんだイメージがほぼ当たってた…。彼がキリスト教と関わりを持っていたのは本当にごく短い期間だったんじゃないかって思うよ。
