当記事より「もし本当に高瀬露さんが宮沢賢治を中傷して歩いたのだとしたら」として浮かんでくる疑問を考えていきます。
(略)
関登久也「宮沢賢治素描」>159〜160ページ「面影」 真日本社 1947(昭和22)年
第三は亡くなられる一年位前、病氣がひとまづ良くなつて居られた頃、私の家を尋ねて來られました。それは賢治の知合の女の人が、賢治を中傷的に言ふのでそのことについて賢治は私に一應の了解を求めに來たのでした。
これにより「賢治が亡くなる1年位前」=1932(昭和7)年秋頃、露さんが賢治を中傷して歩いたようなイメージが付いていますが、これに対し上田哲さんは「この時の露さんの状況と花巻までの交通事情」を挙げて否定しています。
私はこれ以外にも「この時期だと不自然では?」と考えます。なぜなら、1932(昭和7)年秋頃といえば、賢治と高瀬露さんの交流が途絶えた1927(昭和2)年夏頃から約5年という時間が経過しているからです。
様々なケースがありますが、基本的に中傷行為は人間関係のトラブルが発生してからまもなく起こるもの、時間を置いたとしてもせいぜい数ヶ月程度というのが普通ではないでしょうか。

確かに、5年も時間を置いたらそれなりに頭も心も冷えてしまうよね。けどさ…これだけだと、以下の理由で「『1932年秋に露さんが中傷行為をするのは不可能』とは言い切れないのでは?」と言われてしまうんじゃないかと思うの。
- 露さんは割と粘着質な性質があり、5年経ってから当時のわだかまりを再燃させ中傷行為に及んだのではないか?
- 小学校の勤務が終わったあと上郷村から花巻に行って悪口を言いふらすこともできるのではないか?
では、先程述べた上田哲さんの文献の「この時の露さんの状況と花巻までの交通事情を挙げて否定している」部分を引用します。
しかし、当時の彼女は、賢治の中傷をして歩くために花巻まで出かけられるような状況ではなかった。彼女のいた上郷村は、遠野から村二つ隔てた東方八キロの地点にあり、遠野駅までの通常の交通手段は徒歩であった。花巻までは、当時は二時間近くかかった。本数ももちろん少なかった。朝出ても、ちょっと用事が手間どると泊まらなければならなかったと聞いている。また、そのころ長女を懐妊していて、産休はなく、年休のかわりに賜暇はあったが、文字どおり賜るもので、休みをいただくのは容易ではなかった。こんな状況なので体をいたわり遠出をさけていたという。
上田哲「図説 宮沢賢治」>94ページ「賢治をめぐる女性たちー高瀬露を中心に」 河出書房新社 1996(平成8)年
上田さんは上郷村の最寄駅を遠野駅としていますが、上郷村にも岩手上郷という駅があります。なお当時の花巻〜遠野〜岩手上郷を通る鉄道は国鉄釜石線ではなく「岩手軽便鉄道」という軽便鉄道でした。

「朝出ても、ちょっと用事が手間どると泊まらなければならなかった」そうだけど…岩手軽便鉄道をちょっと調べてみましょう。Wikipediaのページによると、1934(昭和9)年11月1日ダイヤ改正時点で以下の通りになっています。
1日の運行本数:全線(花巻〜仙人峠)2往復、花巻〜遠野2往復半
全線所要時間:上り(仙人峠→花巻)3時間40分、下り(花巻→仙人峠)4時間15分
全線運賃:並等1円14銭、特等1円71銭
(Wikipedia - 岩手軽便鉄道より)
岩手上郷駅は終点の仙人峠駅の花巻方面3つ先にあたります。だいたい行きは2時間ほど、帰りは3時間ほどかかると考えられます。しかも1日2往復(片道2本)しかありません。露さんが小学校での勤務を終えてから花巻に行き、悪口を言いふらした後その日のうちに上郷村に帰るなど不可能です。
「悪口を言いふらしたあと実家に泊まり、翌朝実家から出勤する」としても、勤務先の始業時間に間に合うことができるのかどうか、という疑問が出てきます。

よく考えると、当時の露さんはまだ慣れきれていない土地にいて、第一子を身籠ってもいるから、目の前にある「生活」で手一杯なはず。5年前のわだかまりに意識を向けてる場合じゃないし、人の悪口を言うためだけに往復約5時間・2円28銭〜3円42銭という時間とお金をかける気も起こらないよね…。

