「本当にあったとするなら」を考えてみたら…

前記事で「1932年秋に高瀬露さんが宮沢賢治の中傷をして歩くことは不可能」であることはほぼ確実ということが分かりました。

当記事では「本当に露さんの中傷行為があったとするなら」自然な形になる時期などを色々考えてみたいと思います。

前記事の繰り返しになりますが、様々なケースがありますが、基本的に中傷行為は人間関係のトラブルが発生してからまもなく起こるもの、時間を置いたとしてもせいぜい数ヶ月程度というのが普通です。

そういう点から考えると、本当に中傷行為があったとするなら1927(昭和2)年秋頃〜1928(昭和3)年夏頃に起こったとするのが自然だと思います。

その間で最も確実性が高いのは1928年6月中旬から数週間程度と考えます。その理由は儀府文献でも述べられている「1928年6月12日〜14日に賢治が伊豆大島に住むCという女性を訪ねに行った」という事実になります。

知りたい人
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「他の女性に会いに行ったという事実と過去の賢治の自分への仕打ちに対する嫉妬と恨み」は理由として自然だけど、中傷行為の期間は数週間程度? ちょっと短く感じるけど…?

インターネットもSNSもないこの時代、地方に住む無名の女性ができる「中傷行為」はせいぜい顔見知りの数人に話す程度、そこから口コミで広がってもせいぜい地区単位です。次第に話を聞く相手も話す本人も飽きてしまい行動も話も自然消滅してしまうのが普通と思います。

知りたい人
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ああ、確かにね。文章にして書籍にまとめて、不特定多数の人々に広めるみたいな形なら長く続くかもしれないけど。…あ、これ、別に皮肉じゃないですよ。

ここでひとつ新しい疑問が出てきます。

それは「約4年もの間本人や周辺の対応がなかったのは何故?

1932(昭和7)年秋頃、賢治は「自分を中傷している女性がいる」ことについて「誤解のないよう了解を求めに」親類である関徳弥を訪ねます。先程私が推定した「中傷行為の発生時期」である1928(昭和3)年6月中旬ごろから数えると約4年後ということになります。

先程述べたように、中傷がある程度広がったとしても4年も継続するとは考えられません。また4年もの間賢治やその関係者に「賢治が中傷されている」という話が全く届かないということも考えられません。

なのに中傷の的となった賢治も関係者もこの4年の間何もしていませんでした。それは何故なのでしょうか。

知りたい人
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確か賢治は、1928年夏と同じ年の12月から1年ほど重い病気を患って自宅でふせっていたから「中傷行為」への対応ができなかったと言えるけど、それだと「どうして家族が対応しなかったの?」って話になってしまうね。

賢治の家族・関係者の耳に「中傷行為」の話は届いたが、彼らは臥床中の賢治を慮ってずっと話を伏せていたということでしょう…が、それでも「賢治に事を伏せたまま対応するのが自然なのでは?」という疑問が出てしまいます。

「中傷行為を取るに足らないこととして放置していた」と考えることも出来ます。ただ、そうなると1932年秋の賢治の行動が不自然になります。

知りたい人
知りたい人

1932年秋に露さんが中傷を行ったという可能性はほぼ潰れたので「露さんによる中傷行為は2度あったのだろう」という推測はもうできません。ここで考えられる可能性は「1932年秋に『全く別の女性』が賢治の悪口を吹聴して回っていた、もしくはそういう噂話が立っていただけなのでは」ですね。

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