「これ」は証拠になるか?

ここで、こう考える方がいるかも知れません。

「「聖女のさましてちかづけるもの」という、宮沢賢治の怒りが伝わってくる詩がある。高瀬露さんはクリスチャンだし、そんな彼女が賢治に失礼なことをしたからこそ、この詩が書かれたのではないか?」

特に悪評系が「これが露さんの中傷行為の動かぬ証拠だ!」と言いたげに出してくる「聖女のさましてちかづけるもの」という文章。以下に引用します。

聖女のさましてちかづけるもの たくらみすべてならずとて
いまわが像に釘うつとも 乞ひて弟子の礼とれる
いま名の故に足をもて われに土をば送るとも
わがとり来しは たゞひとすじのみちなれや

宮沢賢治 「雨ニモマケズ」手帳 1931(昭和6)年10月24日頃
知りたい人
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これ、私も最初は「露さんとのトラブルのことを書いてるのかな?」と思ったんだけど、次第に「露さんのことを書いているという証拠はない・聖女=キリスト教徒の女性=(当時)プロテスタントの信徒である露さんと読むのは短絡的」ということに気づきました。だって、賢治と関わりがあった女性は露さんだけとは限らないし、賢治と関わりがあったキリスト教徒の女性も露さんだけとは限らないもの。

仮にこれが「露さんが自分を中傷して歩いていることに立腹して書いたもの」であるとしたら、色々と不自然な点が出てきてしまいます。

まず「露さんの中傷行為の発生時期」を仮に「1928(昭和3)年6月中旬頃から数週間程度」とします。そして「聖女のさまして…」が記されたのは1931(昭和6)年10月24日ごろ。記事「「本当にあったとするなら」を考えてみたら…」でも述べたように、この間賢治もその家族・親族も「露さんの中傷行為」に対して何の対応もしていません。

知りたい人
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「中傷行為をやめさせるために露さんと向き合って話し合いを重ねたが、解決までかなり揉めることになった」という経緯でもあるなら「その時を思い出してムカムカした気分が起こり、それを手帳に書きつけた」と言えるだろうけど、何の対応もせず放ったらかしにしておいて数年経ってからあんなキツイ文章を書きつけるなら、賢治は「かなり粘着質な性格」ということになってしまうよね。

むしろ「露さんは何もしていない」からこそ「賢治もその家族・親族も露さんに対する行動を取らなかった」のではないかと考えられます。

ちなみに、この「聖女のさまして…」、露さんとは別の「キリスト教に関係する女性」のことを書いている可能性が高いとのことです。

知りたい人
知りたい人

そうか…。本題から外れてしまうからこの件は当記事では掘り下げないけど、個人的には「やっぱりそうなんだ」って感じ。

ところで旧ブログ運営時、2003(平成15)年7月28日に北上市の古書店で見つかった関徳弥の1930(昭和5)年用の日記「10月4日と6日に露さんが関の婚家である岩田家を訪ねた」旨の記述が「中傷行為」伝説の鍵を握っているのではないかと考え、色々と述べました。

しかし後年「この日記は昭和5年用のものを翌年の1931(昭和6)年に使用している可能性が高い」という指摘を拝見し、曖昧な部分がある関の日記を「中傷行為伝説を考える材料」とすべきではないと判断しました。

知りたい人
知りたい人

この日記の記述は、中傷行為伝説とは関係ない可能性があるってこと? 気になるんだけどなぁ…。

関の日記自体に関してはまた後日、別記事で述べようと思っています。

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