昭和2年6月9日付の「ハガキ」

宮沢賢治と高瀬露さん関連の資料で度々目にするのは、「1927(昭和2)年6月9日に露さんが高橋慶吾に宛てて送ったとされるハガキ」です。

当記事ではこのハガキの内容について色々考えてみたいと思います。

内容に対して抱いた感想

まずはハガキの内容を引用したいところですが「一個人の私信」であることを考慮し、別途ウェブ検索結果に表示されないページを作って掲載いたしました。

以下のリンクからご覧ください。

このハガキの内容に関して、ある賢治研究家の方より重要な指摘が上がっておりますが(後述します)、それはひとまず置いておいて、内容に関して抱いた感想などを記していきたいと思います。

露さんは賢治を訪問した際その旨と賢治宅で何をしたかを紹介者である高橋に報告していたということでしょうか。それでこのハガキを書いた6月9日は帰宅が遅くなってしまったため高橋に報告できず、ハガキでの報告にしたということなのでしょう。

1927(昭和2)年6月9日は木曜日1でしたが、当資料初見時から旧「「猫の事務所」調査書」運営中は「露さんは向小路の実家から宝閑尋常小学校まで通っている」と思っていたため、内容に特に違和感を覚えることはありませんでした。

ただ、賢治の露さんに対する「接し方の急な変化」には首を傾げました。ハガキの内容が時系列に沿って書かれたものとして考えると、

「賢治は帰路までずっと丁重に扱ってきた露さんに、別れ際になって「女一人で来てはいけません」と突然告げた」

ということになります。

「そりゃ驚くし戸惑うしガッカリもするよ…」と露さんをとても気の毒に思いました。

読み返すと抱く「違和感」

当記事を書くにあたり改めて内容を読んでみると、あれこれ違和感を覚える箇所があります。
(注:後述する指摘を拝読した後になりますが、それを脇においての記述になります)

違和感1:年下の異性に話す内容にしては何だか子供っぽいな?

全体的な違和感として、「何だか子供っぽい雰囲気が漂う文章」だと思いました。

「賢治宅で何をしたか」の報告がなんだか「今日学校であったことを親に報告する子供」みたいな感じだし、「先生ニ「女一人デ来テハイケマセン」ト云ハレタノデ…」以降の心情の表わし方が率直すぎる気がします。

こういった話は当時の価値観や倫理観から考えれば、いや、現代の価値観や倫理観でも結構気が置けない間柄である相手、例えば家族や同性同年代の友人でないと言えないと思います。
高橋は露さんより5歳も年下、そしてご近所さんとはいえそこまで親密な間柄とも思えません。

そして露さんは教員という仕事についています。職業柄「自分より若い相手に甘えたことは言えない」という考えを持っていたのではないでしょうか。

違和感2:そこまで親密ではない異性宛ての手紙に下の名前だけを記すの?

ハガキの締めに差出人の名前を「T子」と記しています。これは下の名前だけを記したのと同じことになります。

家族・同性の友人・交際相手でもない相手に宛てた手紙に下の名前だけ記すものなのでしょうか?
当時としても現代でも、あまりお行儀の良い行為ではないと思います。

露さんと高橋が互いに「姉代わり弟代わり」と呼べるほど親密であったというならまだ分かりますが、やはりそこまで親密な間柄とも思えません。そういう相手に宛てた手紙にはフルネームを記載するのが普通ではないでしょうか。

「本来ならこんな内容では」と考える文章を書いてみた

以上に挙げた違和感を踏まえて「本来ならこんなふうに記すのでは」と考える文章を以下に記載します(ひらがな文・現代仮名遣い)。

高橋さん、ご報告がございます。本日宮沢先生宅からの帰りが遅くなってしまい、母に心配をかけると思い高橋さんのお宅にお寄りできなかったので、お葉書にて失礼いたします。
私の訪問に関して先生からご忠告を頂き、私自身もそのことに省みるところがありましたので、今後の訪問は控えることと致しました。
高橋さんにもお世話になりました。ありがとうございました。ではごきげんよう。六月九日 高瀬露

「重要」な指摘があります

旧「「猫の事務所」調査書」の更新を終了してから時を経て、このハガキの内容に関する重要な指摘をインターネット上で発見しました。

指摘は以下の2点です。

  • 昭和2年の6月上旬に「マツ赤ナリンゴ」の入手・人に供することは有り得ない
  • 賢治研究本に引用されている内容は高橋慶吾が提供した「ハガキの写し」に基づくものである(原本の存在が不明である)

参照:「マツ赤ナリンゴモゴチソウニナリマシタ」(ブログ「みちのくの山野草」様)

「リンゴ=秋のみ手に入るもの」だった時代を生きているはずなのに

一読してまず「あっ!」と思ったのは「昭和2年の6月上旬にリンゴが手元にあるということはありえない」という点でした。現在でこそCA貯蔵(ガス貯蔵法)という技術のお陰で年中スーパーでリンゴを目にしますし、価格の違いはありますが購入することも可能です。

リンゴを長期保存する技術・CA貯蔵の日本での導入は1960年代、全国的に普及したのは1970年代とのこと2、1927(昭和2)年ではCA貯蔵はまだ日本にありませんから、旬である秋でしか入手も食べることもできないのです。

「リンゴが年中売り場に並んでいることが当たり前な時代」に生まれ育ったとはいえ、少し考えれば分かることでした。自らの不明を恥じております。

しかし、悪評系の方々・上田哲さんといった「リンゴ=秋のみ手に入るもの」だった時代を生きてきたはずの皆さんも「昭和2年の6月上旬にリンゴを振る舞われた」ことに対し何の疑問も浮かべることなくハガキの内容を受け入れています。

これはおそらく「進歩した技術の恩恵に慣れてしまい、かつての常識が記憶から薄れてしまった」ためだろうと考えられます。よくある話ですね。

それでもやっぱり怪しい高橋慶吾

ただ、高橋慶吾だけは不審の念が拭いきれません。
高橋経由でハガキの内容を見た悪評系の方々や上田さんが思い違いをするのはともかく、リアルタイムでハガキを受け取っている高橋は「先生はこんな時期にどうやってリンゴを入手されたんだ?」と訝り、強く記憶に残すはずです。

ある読者
ある読者

きっと「讃美歌をたくさん歌った」とか「クリームパンやリンゴを振る舞われた」という話は「1年弱の間にあったことを思い返して伝えている」んじゃないかな?

私も「6月上旬にリンゴ」の指摘を拝読した際、即座にそう考えました。しかしその直後に「ベートベンノ曲ヲレコードデ聞カセテ下サルト仰言ツタノガ、モウ暗クナツタノデ早々カヘツテ来マシタ」とあるので、讃美歌を歌ったこともクリームパンとリンゴを振る舞われたことも「6月9日の出来事」として記載しているとしか思えないと考え直しました。

また提供したのが「ハガキの写しだけ」というのも不自然です。資料として差し出すなら普通は原本を出す・原本と共に写しを添えるものではないでしょうか。

このハガキの内容が「高橋慶吾の創作」とは言い切れないし、そのようなことをするメリットも分かりません。

ただ、このハガキの内容の提供や座談会でいきなり露さんの話題を振りひとりで「露さんの愚行」を饒舌に語っていたりなど「露さんが悪く伝えられてしまう材料」を積極的に出している一方「彼女も可哀想なところもある」などと謎にフォローを入れている高橋の行動を見ていると、こう思ってしまいます。

tsumekusa
tsumekusa

高橋慶吾って露さんにずいぶん執着しているなぁ。なんだかフラれた相手に嫌がらせしてるみたいに見える🤔

あくまでも私の主観です。ご了承ください。

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  1. みんなの知識 ちょっと便利帳」様>「万年カレンダー」参照。https://www.benricho.org/clock/calendar.html ↩︎
  2. りんご大学」様>「一木先生のリンゴ講座 第24回」参照。https://www.ringodaigaku.com/play/ichiki/index_24.html ↩︎
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