「西方の村」との距離はどのくらい?

知りたい人
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高瀬露さんの勤務校がある村を、森荘已池は「花巻の西方の村」「遠いところ」とだけ書いています。過去記事で引用した資料によると「湯口村鍋倉の宝閑小学校」とありますが、それは下根子桜の羅須地人協会(宮沢家別宅)からどのくらい離れていたのでしょうか。遠いと言いつつも「一日に二回も三回も」やってこれる程度の距離なのかしら?

露さんの当時の勤務校が賢治の住まいからどのくらい離れているのかを上田哲さんの文献から引用します。

西の方の村というのは、一九五四年(昭和29)四月一日の市制施行にともなって花巻町ほか湯本、矢沢、宮野目、太田の各村と合併するまでは湯口村といっていた地域であろう。村の小学校というのは、寳閑尋常小学校であった。 当時の所在地名は湯口村字鍋倉で一八八九年(明治22)の市町村制施行以前は鍋倉村という小さな村であった。現在の花巻南インターの附近、熊堂の古墳群の辺りと聞いているが、学校は廃校になって跡形はない。森は、遠いところと彼女が学校の附近に住んでいたように想定しているが、湯口村の何処に住んでいたかによって違うが花巻駅までは四キロから五キロ、賢治が住んでいた羅須地人協会までは五キロ以上六キロは離れているので、 何もしないで交通機関のない当時往復するだけで二時間前後はかかるのである。

上田哲「「宮澤賢治伝」の再検証(二)ー<悪女>にされた高瀬露ー」 1996(平成8)年
知りたい人
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5〜6キロ!? マイカーでも持ってないと二回も三回もやってこれる距離じゃないよ。…ん? 管理人、「ちょっと待って」ってどうしたの?

gooブログ版「「猫の事務所」調査書」(以下「旧ブログ」)でこの題材を取り扱っていた当時、宝閑尋常小学校の所在地を上田さんの「現在の花巻南インターの附近、熊堂の古墳群の辺り」という記述をそのまま受け入れ、記事の内容もそれに従ったものにしておりました。

その後読者の方から「熊堂古墳群にあった小学校は別の学校で、宝閑尋常小学校はもう2〜3キロほど離れている」旨のコメントを頂きました。厚く感謝申し上げます。

知りたい人
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おおお、熊堂古墳群の近くにお住いの方なんですね。花巻電鉄という電車の情報も下さっています。大変貴重なコメント、私からも御礼申し上げます。

宝閑尋常小学校のあった湯口村鍋倉・現在の花巻市鍋倉がどの辺りかをGoogleマップで検索し、結果を以下に貼付しました。

知りたい人
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旧ブログに頂いたコメント通り、鍋倉地区は花巻南ICや熊堂古墳群から北西に3キロほど離れたところにあるね。地図を拡大すると「宝閑」という地名が見えてくるけど、露さんの勤務校はこのあたりなのかな?…だとすると羅須地人協会から7〜8キロほど離れてしまうけど…。

戦前に作られた花巻の地形図で「宝閑」の地名が出たあたりを見てみると、南西のあたりに学校を示す記号が記載されています。

出典は「ひなたGIS」、地図のリンクも以下に貼付します。

ひなたGIS

この地点に印をつけたGoogleマップを以下に貼付します。

知りたい人
知りたい人

この地点でも羅須地人協会からの距離はさほど変わらないね。電車があった…とはいえ、こんな距離で頻繁な訪問なんて本当にできるんだろうか…。それは次記事以降で考えることにしましょう。この記事、地図だらけになっちゃいましたね。

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