儀府文献「やさしい悪魔」の章は「ライスカレー事件」の記述を経て「聖女のさましてちかづけるもの」という賢治の殴り書きに内村康江を結びつけるような記述、「賢治にとって内村康江とは何だったのか」という記述、そしてまとめとして「儀府の内村康江に対する考え」の記述という内容になっています。

「儀府の内村康江に対する考え」の記述に対する意見・感想はまた後日に回させて頂き、当記事では「火の島の組詩」に対しての意見・感想を述べたいと思います。
この章では内村康江は「聖女のさました人」と称されています。宮沢賢治がCという女性に出会い彼女の住む伊豆大島へ赴いたことを知った「聖女のさました人」=内村康江がどう考えどういう行動を取ったのかを記した箇所を以下に引用します。
Cが賢治を訪ねて花巻へきたこと、賢治がC兄妹の招きに応じて大島へいったことー普通ならばだいたいこの辺の動きで断念し、おとなしく身をひきそうなものだが、聖女のさました人(引用者注・内村康江のこと)は逆だったらしい。相手のCは、自分のように働いて食べるのが精いっぱいだという職業婦人ではなくて、名も富も兼ねそなえた恵まれた美しい女性であるということがシャクだった。それにもまして、賢治がCに奔ったのは、どっちがトクかを秤にかけて、打算からやったことだと邪推し、 恋に破れた逆恨みから、あることないこと賢治の悪口をいいふらして歩くという、最悪の状態に陥ったのだと考えられる。あれほど温厚で、人のためなら自己犠牲も辞さなかった賢治が、冤を雪ぐ、というほど大げさなものではなかったにせよ、わざわざ関登久也の家まで出かけてこの件に触れたのは、よくよく腹にすえかねたからだったと思われる。彼女は不純な女だと傍人に漏らしたというのも、こんな事情に由るものだったに相違ない。
儀府成一「宮沢賢治 ●その愛と性」 芸術生活社 1972(昭和47)年
女性Cも賢治研究において本名を公にされていますが、当記事ではひとまずイニシャル表記のままとさせていただきます。

蒲団のとき同様、内村康江のCに対する気持ちをまた断定調で書いてるな。ところで「自分のように働いて食べるのが精いっぱいだという職業婦人」ってあるけど、内村康江って小学校の先生でしょ? 当時の学校の先生って「働いて食べるのが精いっぱい」程度のお給料だったのかしら?
当時の内村康江=高瀬露さんの給料については以下の文献に記述がありますので引用します。
高瀬露は明治三十四年十二月生、賢治より五歳下で、次妹シゲと同じ年、大正七年花巻高女卒業、すぐに准教員の資格を取り、教職に就いたのであろう、大正十二年九月には正教員となり、稗貫郡湯口村宝閑小学校に勤める。同校大正十三年の学校一覧を見ると、児童は男八八、女八五の計一七三名で、それを校長、年輩の男先生、若い女先生即ち高瀬の三人で受持ち、複式学級で、彼女はずっと一、二年を受持っている。校務は校長が庶務、男先生が教務、女先生が衛生を担当、現在でいえば養護教諭を兼ねていた。月給はこの時三八円で、大正十五年に四三円、昭和三年には四五円になった。
米田利昭 「宮沢賢治の手紙」P230〜P231 1995(平成7)年

賢治が大島へ行ったのは「できごと年表」によると1928(昭和3)年。つまり、儀府文献に描かれている場面の時点で給料は45円…。現在でいうと何円くらいになるんだろう?
「テンミニッツ・アカデミー」様>2023年7月10日付記事「昔の1円は現在の何円相当なのか?」によると昭和2年の1円は2019年の636円相当とのこと。これをもとに計算すると636✕45=2万8630円となります。

当時の物価も関わってくるから、この金額を現在の感覚で話すことは出来ません。しかし私と管理人は再び儀府に問いたいです。
「いや、その考えをどうやって知ったんですか? 内村康江から直接聞いたんですか? これもあなたの下劣な心情を表現しているだけではないですか? あなたのやっていることこそ邪推じゃないんですか?」

