
「和服姿の女性」に関する記述でおかしいと感じたのは「森荘已池が賢治を訪ねた時期」。その部分を書き出しますね。
●宮沢賢治と三人の女性
「一九二八年の秋の日、私は下根子を訪ねたのであった」
●高雅な和服姿の”愛人”
「羅須地人協会が旧盆に開かれたその年の秋の一日であった。そこへ行くみちで…」
「大正十四年夏、この協会ができた時、お訪ねしたいと手紙を出すと、今はとても忙しいから、秋においでなさいと返事があった」
片や「1928(昭和3)年」、片や「大正14(1925)年」。3年の誤差があります。

誤差だけじゃなく、史実と照らし合わせてもおかしいんだよね。このサイトの「できごと年表」を見ながら考えていきたいと思います。
まずは「宮沢賢治と三人の女性」で述べられている「一九二八年の秋の日」。
「できごと年表」>1928年の項にもありますが、事実として賢治はこの年の8月10日に両側肺浸潤と診断され実家に戻り臥床しています。療養期間ははっきりと分かりませんが、少なくとも1ヶ月の間は体調は芳しくなかったようです。その後調子は少し戻ったり悪くなったりを繰り返し、下根子の別宅に足を運ぶことはあっても他人と会って話をするという状態ではなかったようです。

肺浸潤って、賢治関連の資料ではよく見る言葉だけど詳しくは知らなかったのでこの機会にググってみました。この時代においては結核の初期症状とされる状態だったそう。それじゃとても他人と会って話なんかできないね。約束があってもドタキャン致し方なしといったレベルだ。
しかし「宮沢賢治と三人の女性」では、着物姿の女性とすれ違ったあと宮沢家別宅に到着し、しかも元気な様子の賢治と会い「縁側に座を占め」て(隣り合って)普通に会話をしているのです。

「賢治が元気な様子」という部分がもうね…。
ところでこの場面、「高雅な和服姿の”愛人”」では「賢治と森は二階と地上部分で言葉を交わした」という描写になっていますが、この違いは許容範囲とみなし言及いたしません。
次に「高雅な和服姿の”愛人”」で述べられている「羅須地人協会が旧盆に開かれたその年の秋の一日」「大正十四年夏、この協会ができた時」。
この記述によると「羅須地人協会は大正14年夏に出来て、森は同年秋に賢治を訪ねた」ということになりますが、「できごと年表」>大正14年の項を見てみると…。

はい、ダウト!
羅須地人協会の活動が始まったのは1926(大正15)年の8月じゃないか!
片や「賢治は病気で自宅療養していた時期」、片や「羅須地人協会の活動など影も形もなかった時期」ということになってしまいます。

