結婚後の彼女2

結婚後の小笠原露さんの様子はどんなものであったか。

1944(昭和19)年から1951(昭和26)年までを、上田哲さんの論文「「宮澤賢治伝」の再検証(二)ー<悪女>にされた高瀬露ー」から引用しながら思うことなどを述べていきたいと思います。

上郷尋常高等小学校→松崎尋常高等小学校→青笹尋常高等小学校→東禅寺尋常高等小学校と2〜3年間隔で上閉伊郡内(いずれも現在は遠野市内)の小学校に赴任し、1940(昭和15)年に遠野尋常小学校へ転任しました。そしてその4年弱後の1944(昭和19)年1月、勤務校を退職しました。

その2年弱後に大きな出来事が訪れました。
1945(昭和20)年12月19日、露さんの夫・小笠原牧夫さんが死去したのです。52歳の若さでした。おそらく1943年後半あたりから小笠原牧夫さんは体調を崩され、露さんは看病のために職を退いたと思われます。

知りたい人
知りたい人

結婚生活は13年8ヶ月間…あまり長くはなかったね。
当時の露さんは43歳くらい、小笠原夫妻が儲けたお子さんは10歳前後…。
敗戦間もなくの混乱している時期のことで、露さんは深い悲しみと心細さを抱えていただろうね。

またこの少し前から、故郷の花巻では「ある男性」の話を発端に露さんの悪評が囁かれ始めました。その男性のことはまた後ほど述べたいと思います。

夫との死別から約2年8ヶ月後、1948(昭和23)年の2学期から露さんは遠野小学校に養護教諭として教職に復帰しました。そして信仰の面でも転機が訪れたのです。

夫の死で彼女も次第に神社との縁が薄くなっていった。教会生活への復帰を考えはじめていたところたまたま一九四九年スイス人の宣教師が、遠野町の旧家で醸造業を営んでいる「M錬」の広間を借り教会の建物が出来るまでそこを伝導所としてお祈りの集まりやキリスト教の勉強会をしているということを聞き、(中略)旧家の「M錬」さんが部屋を貸している位だから確かな人々の集まりだと考えて出席したのである。
「M錬」は屋号でMがその家の姓であった。この家の娘Yがカトリックに入信していたことからここが遠野での初めての伝導所となったのである。

(中略)
MYは露より二十歳近く若くこれまで互に直接な交流はなかったが、四面楚歌的状況の中で生活していた露は、暖かく迎えてくれたYの旧家のお嬢さんらしいおっとりして純な人柄に惹かれ次第に年齢を超えて親しい交流をもつようになった。ところで出席して旧教(引用者注・カトリックのこと)であることを知って戸惑ったが、MYがやさしく何かと世話してくれ、「M錬さん」で開かれている集りなので途中で帰るわけにもいかず話しを聞いているうちに今まで知らなかったキリスト教の知識を得ていくらか旧教に興味を持った。
(中略)
そうして納得のいくまで『公教要理』の学習をして一九五一年(昭和26)三月二十五日、昨年建ったばかりの教会で洗礼を受けた。

上田哲「「宮澤賢治伝」の再検証(二)—<悪女>にされた高瀬露—」1996(平成8)年
知りたい人
知りたい人

MYさんという心強い友人との出会い、部外者ながら温かい気持ちになったよ。
露さんはお嫁入りからMYさんとの出会いまでの約17年間、信仰の面でつらい日々を送っていたんだよね…よく耐えられたよね。

さて、結婚後の露さんの様子を見てきたところで「校本宮澤賢治全集」及び「【新】校本宮澤賢治全集」の「高瀬は後幸福な結婚をした」という言葉を再び考えたいと思います。

知りたい人
知りたい人

え、またそれ言うの?
全集」側は結婚後の露さんの様子を詳しく知らなかったんだろうし、前も言ったけど賢治が生涯を閉じる前に縁遠くなった人のその後を詳しく記す義務なんてないから、ある程度強引で適当な締め方でもいいじゃんよ。

しかし私はこの言葉に不快感を抱くのです。
gooブログ版では「(「高瀬は後幸福な結婚をした」という言葉は)高瀬露に対する僅かながらの罪悪感の現れなのでしょうか」などと述べましたが、現在は「「全集」側の偽善・格好つけ」と認識しています。

結婚後の生活を「幸せだったか不幸せだったか」を決め、言葉で表す権利は露さんにしかありません。
何も知らない・知ろうとしない第三者が勝手に「後幸福な結婚をした」などと言い切るのは大変おこがましい行いではないでしょうか。

「高瀬は一九三二(昭和七)年結婚により小笠原と改姓、遠野に移り住む。」と事実だけを記載していれば良かったと思います。

知りたい人
知りたい人

た、確かに、ね…。

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