【資料】森荘已池宛て 伊藤チヱ書簡

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1941(昭和16)年に伊藤チヱさんが森荘已池に宛てて2度送った「懇願の手紙」です。個人の書簡であるため記事内の引用は避け、検索結果に表示されない当ページを設けて掲載いたします。

1941(昭和16)年1月28日付

(前文二百字余字略)二十三日附御送附の「六甲」正に拝受、私はとても苦しゅう御座居ます。俎板の上にのせられた鯉は、決してぢたばたせぬものと聞いて居りますけれど、私はとてもつらい。つらくて泣けて泣けてなりません。あの方の浄らかな輝かしいお名前に結びつけられて活字になったちゑ子は、下根の身の程をつくづくと知ります故に、泪が留め度も御座いません。
 皆様が人間の最高峰として仰ぎ敬愛して居られますあの御方に、御逝去後八年も過ぎた今頃になって、何の為めに、私如き卑しい者の関りが必要で御座居ませうか。あなた様のお叱りは良く判りますけれど、どうしてもあの方にふさわしくない罪深い者は、やはりそっと遠くの方から、皆様の陰にかくれて静かに仰いで居り度う御座居ます。あんまり火焙りの刑は苦しいから今こそ申し上げますが、この決心はすでに大島でお別れ申し上げた時、あの方のお帰りなる後ろ姿に向って、一人ひそかにお誓ひ申し上げた事(あの頃私の家であの方を私の結婚の対象として問題視してをりました)約丸一日大島の兄の家で御一緒いたしましたが、到底私如き凡人が御生涯を御相手するにはあんまりあの人は巨き過ぎ、立派でゐらっしゃいました。
 己の足りなさを知る者はそれと知って。どうして控へずに居られませう。あの時も今も、その考へいささかの狂ひも御座居ません。かうして大騒ぎされてゐらっしゃる今となりましては、尚更に明るみに持ち出されてあの方の汚点にはどうしてもなりたく御座居ません。森さんどうぞ許して下さいませ。あなた様はきっと憐み深い方、陽の見るべきすぢのもので無いこの女心と泪とどうぞあなた様丈は判って下さいませ。今後一切書かぬと指切りして下さいませ。早速六甲の私に関する記事、抜いて頂き度くふしてふして御願ひ申し上げます。
 今私は天地の真中に仰臥して湧き起こるもの、通り過ぎるもの、したたり落るものなど、内なる世界を心静かにあかずじっと見守って居ります。過去に対する解剖のメスは何と容赦も無く厳しいもので御座居ませう。この肉体が祝福された病苦の圧搾によって、液体となり気体となって四散する日、やがてその最後に無の世界に抱き取られて、そこからもう一度幼児の無心さをもってひきかへし、ゆきずりにお会ひする全ての人々を、理窟なしに真実かけて愛せる日が参りましたら、その時こそ、法華経を下さいましたあの方の御遺志にも、少しは御答へ出来るやうにと、考へたりしては居りますけれど、鈍根故にそれもおぼつかなく、それを思ふと淋しさの限りで御座居ます。森さん、あなた様はほんとうによいお方、どうぞこれ以上私をくるしめないで下さいませ。どうぞこのままそっと置いて頂けないもので御座居ませうか。
 さあこれから御一緒に原稿をとりに参りませう。口ではやはり申し上げきれないと思ひ、書いて参りました。どうぞ悪しからずお許し下さいませ。取り急ぎかしこ。
   一月廿八日            伊藤ちゑ
森荘已池様
梶原の御宅をお訪ねするつもりで出ましたが、時間の制限を受けて、ある家を先きにお訪ね申し上げましたら、もう疲れてそのまま帰って参りました。
立派な方、巨きい方、輝かしくも美しい方を、どうしても汚したくないこの念願は、どうしても通させて頂きたく、助けて頂きたくこの手紙お出しすることにいたします、ちゑ子を可哀想と思召して、どうぞどうぞおゆるし下さいませ。

森荘已池「宮沢賢治の肖像」 津軽書房 196〜198ページ 1974(昭和49)年

1941(昭和16)年2月17日付

(前七十五字略)実は又今度こそ本気な御願ひで御座居ます。私、頭が悪くて先日さし上げました手紙の中に、私のやうな凡人にはとか、足りなさとかあっさり申し上げてしまひましたけれど、あの後いろいろと考へて見ました結果、あんな風な書き方をしては却って別な意味にお取りになられる恐れが有り、寝ても覚めても心苦しく嫌でもう一枚下の私を、はっきりしなければならないものかしらと、べそをかきかき勇気を出して一筆申し上げる事にしました。
 正直に申し上げますと、あの頃私は救ひのない真暗いものを抱いて居りました。それは年頃の姫達に共通な或る漠とした感傷から来るものではなく、生ひ立ちに根ざした人生に対する疑ひであり自己に対し、又、人間全体に対するそれで御座居ました。この真黒いものはこんなに年をとりました今でも、ある時は羽二重のすべっこい小切れの一ひらに、縮んで見えなくなることも御座居ますけれど、反対にふくれ上り、立体となって見る見る中に、角もいかめしい岩石となってのしかかり、それこそ文字どおりあいた口がふさがらないといふやうな、あきれたお化けで、私のもって生れた宿命の悲しいおもちゃとでも申し上げて置きます。

(引用者により977文字・4段落分省略)1

 労れてしどろもどろになって参りましたから、事務的に申させて頂きます。こんな心の戦ひの最中にあの方とのお話が持ち上りました。かう申し上げましても宮沢家では御本人初め全然お知り遊ばさない事で御座居ます。只私方で女独りで居られるものでは無いからと周囲の者たちに強硬にせめたてられて、しぶしぶ兄のお供をさせられて花巻の御宅に参上させられた次第で御座居ます。
 御承知の通り六月に入りましてあの方は兄とのお約束を御忘れなく大島のあの家を御訪ね下さいました。
 あの人は御見受けいたしましたところ、普通人と御変わりなく、明るく芯から楽しそうに兄と話して居られましたが、その御話の内容から良くは判りませんでしたけれど、何かしらとても巨きなものに憑かれてゐらっしゃる御様子と、結婚などの問題は眼中に無いと、おぼろ気ながら気付かされました時、私は本当に心から申し訳なく、はっとしてしまひました。たとへ娘の行末を切に思ふ老母の泪に後押しされて、花巻にお訪ね申し上げましたとは申せ、そんな私方の意向は何一つご存じない白紙のこの御方に、私丈それと意識して御逢ひ申したことは恥ずべきぬすみ見と同じで、その卑劣さが今更のやうにとてもとても情なく、一時にぐっとつまってしまひ、目をふせてしまひました。
 さうかと申しまして両方承知の上での見合ひなるものは、何とはなし死んでも嫌で、それまで毛ぎらひして参りましたのですから、そう神経を立てなくてもよさそうなのに、何故かあの方の開き切った、にこやかな童心の威力の前にはこの時ばかりは、私が幼児の弱い腕を充分意識の上で逆にねぢ上げてゐるやうな切なさとなって責められ、また素手で立ち向う印度の民衆に対して、英国官憲が武器を持って目茶目茶に殺し、ふみにじったといふ消ぬべくも無い精神的大恥辱なども思ひ出され、完全な敗北感をどうする事も出来ず、只々お膝の上に指を組み合せてがっちりふせて居られます純潔さうな御手を見ながら、どうぞこの度の私の卑しい行為をお許し下さいますやうにと、心の中で繰り返へし繰り返しお詫び申し上げた事で御座居ました。
 我にかへりましては、自分すらもいとわしい黒衣を引きずる身、すてやうも無い、あわれな私の影が御座います。あの方でなく外の方とでも到底結婚は出来そうも無いあの頃の私で御座居ました。ああこんなにみんな申し上げてしまって、でも私なんかと違って人を憎んだ事や、いぢめた事のないと仰有る森さんです。この通り大島で頭っから兜をぬいでお別れ申し上げた私です。あの人にふさわしくない足りないと申し上げた言葉の底の本当の意味、今度こそ良く判ったから書かぬと仰有って下さいませ。私はそれを信じたい。承りまするとご臨終の日、御生涯を通してあの生命を賭けて御書きなさいました沢山の作品をすら、迷ひの果ですからどうでもよろしゅう御座いますと、立派に最後のはっきりした御意志をもって、いと大なるものの腕に安じてまかせられ、いささかの未練も御残し遊ばさず、敢然と御旅立ちなさいましたと伺ひます。
 地上でのものとはいへ、その大事な愛する数々の作品をすら迷ひの果としてすててその上を踏みこへて行かれたあの人でゐらっしゃいます。若しかりに森さんの御書き込みになった日記が間違ひ無いものといたしましても、ざくろのやうにみんなお腹の中までお見せ申し上げた通り、取るに足らぬ私如き者への地上一瞬の関心事、今天上に在られましては怜悧すぎる程のあの方故、全部が素通し御見えの事です。ちゑ子へもやっぱり仮象への迷いであったと、必ずどんなに後悔してゐらっしゃいませうか。
 ちゑ子を無理にあの人に結びつけて活字になさる事は、深い罪悪とさへ申し上げたい。そっと、さうゆりうごかさずに眠らせてさし上げては頂けませんでせうか。
 ふしての御願ひ、もう決して書かぬと御約束下さいませ。この前の手紙のやうに又誤字だらけとは存じますが、手紙を書きなれませんので御判読下さいますやう。(後百二十三字略)
   二月十七日            伊藤ちゑ子
森 荘已池様

森荘已池「宮沢賢治の肖像」 津軽書房 196〜198ページ 1974(昭和49)年

  1. この部分には伊藤チヱさんの「自らの人間性の説明」が綴られていますが、引用者の判断で省略いたしました ↩︎
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