次に上田哲さんが挙げた「ライスカレー事件」に対する疑問、
- ライスカレー事件はいつの出来事か
- 現場に居合わせていたのは誰なのか
- 客観的に現場を見ていた人物は誰なのか
について、同席者・目撃者→日時の順で書き、最後に以下の疑問に対する個人的見解を述べたいと思います。
- 「ライスカレー事件」はあったのか?
そこにいたのは誰か
「ライスカレー事件」に対する上田哲さんの疑問をもう一度引用します。
不思議なことにこの出来事のあった年月日時は不明である。いつごろと漠然とした程度の時もわからない。また、この物語りの主人公は、賢治と高瀬露である。それに数人の賢治を訪ねてきた農民たちがいるが、それは誰だかわからない。 戦前から有名になっていた話なのだからあの時いたのは、俺れだぐらい言ってもよさそうだが、とうとう名乗り出なかった。それに、この事件が事実なら仰天した農民たちとは別に冷静に客観的に一部始終を見ていた人物X氏がいたはずである。そういう人物がいなければこの話は伝わらなかったはずである。それが誰だかわからない。これも不思議である。森荘已池氏も、その場にいなかった。あとで詳しく述べるが、この話の最終的情報源は、今のところ高橋慶吾にたどりつきそこで止まってしまうが、それより先はわからない。高橋慶吾は、そこにいたのは自分であるとは言っていない。あるいは親しい人には、話したかも知れないが、少くとも文献的にも、あるいは誰かの証言という形でも遺っていない。
上田哲「「宮澤賢治伝」の再検証(二)ー<悪女>にされた高瀬露ー」 1996(平成8)年
なお上田さんは「ライスカレー事件」が実際にあったのかに対しては懐疑的であるようでした。残念ながらその検証は出来ずじまいになってしまいましたが…。
この「ライスカレー事件」、実は「露さんの頻繁な訪問」と共に「元ネタ」があるのです。
それは上田さんの指摘の中で名前が上がっていた高橋慶吾という男性。彼は賢治没後、羅須地人協会活動当時に賢治の元に通っていた賢治の教え子たちと「先生を語る」と題した座談会を開いており、その内容は1943(昭和18)年に関徳弥が著した「宮沢賢治素描」という書籍に収録されています。
座談会の中で彼らは「ライスカレー事件」と「露さんの頻繁な訪問と賢治の対応」のことも話しているのです。内容はまた後日「悪評の原因」に関して書く際に引用させて頂きますがここでは「ライスカレー事件」に関する部分のみ引用いたします。
座談会の参加者はK、C、Mという3人の男性。露さんの話を切り出すのはK=高橋慶吾。まず「露さんの頻繁な訪問と賢治の対応」について話した後続けて「ライスカレー事件」の話を始めます。以下に引用します。
K (略)何時だつたか、西の村の人達が二三人来た時、先生は二階にゐたし、女の人は台所で何かこそこそ働いてゐた。そしたら間もなくライスカレーをこしらへて二階に運んだ。その時先生は村の人達に具合悪がつて、この人は某村の小学校の先生ですと、紹介してゐた。余つぽど困って了つたのだらう。
C あの時のライスカレーは先生は食べなかつたな。
K ところが女の人は先生にぜひ召上がれといふし、先生は、私は食べる資格はありませんから、私にかまはずあなた方がたべて下さい、と決して御自身たべないものだから女の人は随分失望した様子だつた。そして女は遂に怒つて下へ降りてオルガンをブーブー鳴らした。そしたら先生はこの辺の人は昼間は働いてゐるのだからオルガンは止めてくれと云つたが、止めなかつた。その時は先生も怒つて側にゐる私たちは困つた。そんなやうなことがあつて後、先生は、あの女を不純な人間だと云つてゐた。
座談会「先生を語る」 収録:関徳弥「宮沢賢治素描」1943(昭和18)年
高橋慶吾は「側にゐる私たちは困つた」と発言しています。Cさんも「事件現場」の様子を一言だけながら話していることから、この話はある程度信用して良いと見て、「ライスカレー事件」の現場に居合わせ、一部始終を冷静に客観的に見ていた人物は最低でも高橋慶吾とCさんの2名ということになります。
森荘已池はこの座談会をもとに「ライスカレー事件」の文章を書いたのであり、現場に居合わせていたわけではありません。「森文献をコピペ+装飾」の儀府成一は言わずもがな(そもそもこの時期儀府は賢治と交流を持っていません)。
いつの出来事なのか
「ライスカレー事件」はいつ起こった出来事なのか。
前項座談会において高橋慶吾は「何時だつたか」と述べていて具体的な時期を覚えていないようです。もともとの情報がこんな状態だから、悪評系もさすがに時期までは適当なことを書けなかったようですね。
ただどの文献も基本的に「露さんが賢治の元へ通うようになる」→「露さんの訪問頻度が高くなり賢治が辟易し始める」→「ライスカレー事件」といった順番で記述しており、「賢治と露さんの交流の最末期の出来事」と見えるように位置づけています。
露さんは、賢治の元に通っていた具体的な時期を「彼女の「実際の姿」(1)」でご紹介した遠野在住の歌人KEさんに話しています。上田哲さんの文献から該当部分を引用します。
「露さんは、「賢治先生をはじめて訪ねたのは、大正十五年の秋頃で昭和二年の夏まで色々お教えを頂きました。その後は、先生のお仕事の妨げになっては、と遠慮するようにしました。」と彼女自身から聞きました。
上田哲「「宮澤賢治伝」の再検証(二)—<悪女>にされた高瀬露—」1996(平成8)年
「昭和二年の夏」という漠然とした表現をしていますが、大体7月〜8月くらいでしょう。秋を9月〜10月くらいと考えると、露さんが賢治の元に通っていた時期は最大でも1926(大正15)年9月頃〜1927(昭和2)年8月頃の約11ヶ月。元号で書くと長い期間通っていたように見えてしまいますが、実際は1年にも満たない短い期間だったのですね。
ともあれ「ライスカレー事件」が「賢治と露さんの交流の最末期の出来事」とするのであれば、この出来事が起こったのは「1927(昭和2)年6月〜7月頃」と考えるのが妥当かもしれません。
個人的見解「ライスカレー事件はあったのか」
私は「ライスカレー事件」は「半分本当で半分嘘」だと思っています。
「露さんがライスカレーを作った・賢治はライスカレーをなぜか頑なに拒んだ・露さんはそれにガッカリしてその場を外した」という出来事自体は、先に引用した対談で「高橋慶吾が語った内容に対しCさんが自然な様子で自身の記憶を語っている」ことから実際にあったことと見て良いのでしょう。
しかし悪評系文献に書かれている「昼ドラの愛憎劇」のような賢治と露さんのやりとりは「高橋慶吾が語った出来事の内容を基にして創作したもの」と断言していいと思います。何故なら、森・儀府両氏ともその場に居らず、賢治や露さんの心情も本人たちから聞いたものではないからです。
個人的見解としての「ライスカレー事件」の流れを以下に記述します。
1927(昭和2)年7月〜8月の某日、宮沢家別宅で農民数名と賢治の弟子数名の集まりが催されることになり、賢治は露さんに「これだけの人数に行き渡る昼食を準備して欲しい」と伝えた。
ライスカレーを作ることに決めた露さんは、当日早朝から材料・調理器具・食器を宮沢家別宅に運び、調理を始めた。
来客の一人・高橋慶吾は台所で作業をしている露さんを見かけたが、特に気に留めることもなく宮沢家別宅2階に上がっていった。
お昼になり、露さんはお皿に盛り付けたライスカレーを賢治や来客のいる2階に運んだ。
露さんと面識のない農民たちは露さんの存在に少し驚いた様子を見せた。そんな農民の様子に賢治は困ったような表情をし、慌てたように「この人は湯口村の小学校の先生です」と言葉を発した。
露さんも多少恐縮しつつライスカレーを全員に配り「冷めないうちにどうぞ」と勧めた。賢治は困ったような表情のまま申し訳なさそうに口を開いた。
「私には食べる資格はありませんから、まず皆さんが食べてください」
露さんは賢治の言葉に戸惑いながらも「そう仰らずに召し上がってください」と再度勧めた。しかし賢治は頑として食べようとしなかった。
露さんはとうとう顔に失望の色を浮かべ、失礼しますと一言言った後1階に降りた。程なくしてオルガンの音が聞こえてきた。賢治は慌てて1階に降りていった。
2階にいる来客はオルガンの音色と「…昼間はみんな働いているから…オルガンは止めてください…」という途切れ途切れの賢治の声を聞きながら、どうしようもない雰囲気に互いの顔を見合わせていた。
「ライスカレー事件」から分かること
この「ライスカレー事件」の流れで分かることが数点あります。
①「賢治が露さんを煙たがっているのを知っている」高橋慶吾が台所で何やら作業をしている露さんを見ても賢治に伝えなかったのは「露さんが昼食作りを賢治から頼まれているのを知っていたから」ではないか
②来客が露さんの姿に驚いたのは、露さんが頻繁に賢治の元を訪れていない証拠ではないか
(頻繁に訪れているのなら一人くらい面識のある人がいるはず)
③来客に露さんの存在を知られて賢治が気まずそうにしていたのは、賢治が露さんを異性として過剰に意識している証拠ではないか
(露さんのことを何とも思っていないなら平然と「この人は宝閑尋常小学校の高瀬先生で、ご実家が近所なので時々お手伝いに来てもらっている」と説明できるはず)
「ライスカレー事件」は「露さんの勘違いが叩き潰された出来事」ではなく「賢治は結構大人げ無い人物だったことが現れた出来事」ということなのですね。
最後に出過ぎた個人的見解を述べさせていただきます。
「悪評系が伝える「ライスカレー事件」の内容を何の疑問も抱かずに受け入れる人は、自分で料理をしたことがない(男女関係なく)のではないか」