当記事では「ライスカレー事件」に対して上田哲さんが挙げた疑問に関して考えていきます。

上田さんが挙げた疑問は「事件の日時・同席者や目撃者」でしたね。同席者・目撃者→日時の順で進めていきましょうか。
まずは「事件現場の同席者・目撃者」から考えていきます。
この出来事は「高瀬露さんの頻繁な訪問」同様「元ネタ」があるのです。それは上田さんの文献の中で名前が上がっている「高橋慶吾」という男性です。
彼は宮沢賢治没後、羅須地人協会活動当時に賢治の元に通っていた賢治の教え子たちと「先生を語る」と題した座談会を開いており、その内容は1943(昭和18)年に関徳弥が著した「宮沢賢治素描」という書籍に収録されています。
座談会の参加者はK・C・Mという3人の男性で、露さんの話を切り出すのはK=高橋慶吾です。まず「露さんの頻繁な訪問と賢治の対応」について話した後続けて「ライスカレー事件」の話を始めます。「ライスカレー事件」の部分を以下に引用します。
K (略)何時だつたか、西の村の人達が二三人来た時、先生は二階にゐたし、女の人は台所で何かこそこそ働いてゐた。そしたら間もなくライスカレーをこしらへて二階に運んだ。その時先生は村の人達に具合悪がつて、この人は某村の小学校の先生ですと、紹介してゐた。余つぽど困って了つたのだらう。
C あの時のライスカレーは先生は食べなかつたな。
K ところが女の人は先生にぜひ召上がれといふし、先生は、私は食べる資格はありませんから、私にかまはずあなた方がたべて下さい、と決して御自身たべないものだから女の人は随分失望した様子だつた。そして女は遂に怒つて下へ降りてオルガンをブーブー鳴らした。そしたら先生はこの辺の人は昼間は働いてゐるのだからオルガンは止めてくれと云つたが、止めなかつた。その時は先生も怒つて側にゐる私たちは困つた。そんなやうなことがあつて後、先生は、あの女を不純な人間だと云つてゐた。
座談会「先生を語る」 収録:関徳弥「宮沢賢治素描」1943(昭和18)年
高橋慶吾ははっきり「側にゐる私たちは困つた」と発言しています。Cさんも「事件現場」の様子を一言だけながら発言していることから、この話はある程度信用して良いと判定します。
このことから、「ライスカレー事件」の現場に居合わせ、一部始終を冷静に客観的に見ていた人物は最低でも高橋慶吾とCさんの2名ということになります。

森荘已池はこの座談会をもとに「ライスカレー事件」関連の文章を書いたってことだね。なのに「自分も現場にいた」風な書き方をしているのが何とも…。「森文献をコピペして話を更に盛った」儀府誠一は言わずもがな…っていうか、そもそもこの時期、儀府は賢治と交流を持っていないもんな。
次に「ライスカレー事件の発生日時」を考えていきます。
上記引用の座談会において高橋慶吾は「何時だつたか」と述べていて、具体的な日時は覚えていなかったようです。

「元ネタ」がこんな状態だから、森荘已池も儀府誠一もさすがに日時までは書けなかったんだね。
ただ、どの文献も基本的に「露さんが賢治の元へ通うようになる」→「露さんの訪問頻度が高くなり賢治が辟易し始める」→「ライスカレー事件」といった順番で記述しており、「賢治と露さんの交流の最末期の出来事」と見えるように位置づけています。
露さんは、賢治のもとに通っていた具体的な時期を親しい人に話しています。該当部分を上田哲さんの文献から引用します。
「露さんは、「賢治先生をはじめて訪ねたのは、大正十五年の秋頃で昭和二年の夏まで色々お教えを頂きました。その後は、先生のお仕事の妨げになっては、と遠慮するようにしました。」と彼女自身から聞きました。
上田哲「「宮澤賢治伝」の再検証(二)—<悪女>にされた高瀬露—」1996(平成8)年

これは「周囲の人々の証言(1)」でご紹介した、遠野市在住の歌人KEさんの証言ですね。
露さんは「昭和二年の夏」と大まかな表現をしていますが、大体7月〜8月くらいと思われます。秋を9月〜10月と考えると、露さんが賢治のもとに通っていた時期は最大でも1926(大正15)年9月〜1927(昭和2)年8月の11ヶ月間となります。

元号で書くと長い期間通っていたように見えるけど、実際は1年にも満たない短い期間だったんだね。
「ライスカレー事件」を「賢治と露さんの交流最末期の出来事」とするのであれば、出来事の発生は「1927(昭和2)年6月〜7月頃」と考えるのが妥当だと思います。

