森文献より「和服姿の女性」(3)

森荘已池が2つの文献で「下根子の別宅に住む賢治を訪ねる途上で和服姿の女性とすれ違った」と記した時期には3年もの違いが、そして片や「賢治は自宅で病気療養していた時期」、片や「羅須地人協会の活動など影も形もなかった時期」ということが分かりました。

知りたい人
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「そんなのただの記憶違いだろ、1〜2年程度の違いなんかいちいちつつくこっちゃない」なんて言われるかもしれないけど、少なくとも私はそういう擁護をする気にはなれないな。だってこれらの文章は「賢治と交流があったという肩書を持った人物が公に向けて書いた・人々からお金をもらって読ませるもの」なんだから。

羅須地人協会設立がいつであったかの記憶が曖昧であったなら、関係者に確認を取る・自分が過去に書いた文章を見直してみるなどいくらでも方法はあったはずです。協会設立は賢治の人生において「大イベント」の1つであり、公に向けた賢治の思い出話で絶対に間違えてはいけないことだと思います。

知りたい人
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こういう間違いが許されるのは「身内だけに話す思い出話」の範囲だけだよね。「森はどちらの文献ともあまり責任感を持たずに書いた」と捉えられても仕方がないよ。

「羅須地人協会活動中の秋」として適切なのは1926(大正15)年・1927(昭和2)年ですが、この期間の森荘已池の動向については「重大な事実」があるのです。

森は羅須地人協会設立の1926(大正15)年8月当時は東京外国語学校の学生として東京に在住、同年11月25日頃に重病を患い岩手に帰郷療養、翌年の1927(昭和2)年3月に盛岡病院に入院、病気が癒えたのはさらに翌年の1928(昭和3)年6月のことだったとか。1

知りたい人
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1926年の秋には東京にいて、1927年の秋には入院中、1928年の秋にはもう羅須地人協会の活動は途絶えていた…つまり「羅須地人協会活動中の秋に森が下根子で暮らす賢治を訪ねることは出来なかった」ってことか。え、じゃあ、だとしたら…。

この事実を見ると「森は両文献を『あまり責任を持たずに書いた』のではなく『分かっていてやった』のではないか」と感じてしまいます。

知りたい人
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分かっていて「嘘」を書いたのはどうしてなんだろう。…か、考えるとなんだか背筋が寒くなってきた((((;゚Д゚))))
もし「分かっていて嘘を書いた」のが本当なら、森はとても暗く重いものを背負うことになってしまったんだな…。

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  1. 鈴木守「本統の賢治と本当の露」(ツーワンライフ出版・2018(平成30)年)125〜128ページより ↩︎
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