この記事では、関徳弥の「昭和5年10月4日・6日付日記」の内容に関して思うことを述べていきたいと思います。
2003年夏に見つかった日記
関徳弥の昭和5年の日記というのは、2003(平成15)年7月28日に北上市の古書店で発見された冊子です。
その内容は高瀬露さんが関の婚家である岩田家を訪問して賢治との結婚話をした、というもので「昭和5年まで露さんと賢治の間に結婚話が続いていたのでは」という推測を呼びました。
私はこのニュースを新聞の社会面の小さな囲み記事で知り、とても驚きました。ちょうどその時は「露さんが悪く伝えられること」に疑問を持ち始めた時期であり、この報道は疑問を少し加速させたのです。
私が見た記事は結構さらっと伝えている感じで「生涯独身を貫いた賢治にもこんな一面があったのだな」といった調子の一文で締められていました。しかし地元岩手県では「郷土の偉人にまつわる大発見」となりますから、当然ながら大きく報道されていたようです。
資料として、岩手県の地元紙・岩手日報のウェブ版記事へのリンクを以下に張ります。といってももう20年以上前の記事であるため、リンク先はウェイバックマシンから呼び出したアーカイブとなります。ご了承ください。
岩手日報と啄木・賢治 2003年7月29日「賢治に結婚話 親せきの日記に記述」
なおこの日記、昭和5年用のものを昭和6年に使用している可能性が高いという指摘もあります。詳細は以下のブログ記事をご覧ください。
『昭和五年 短歌日記』は昭和6年用に使われた(ブログ「みちのくの山野草」様)
この日記に関しては(「昭和6年用に使っていた」ということ以外で)色々と「深い闇」を感じる部分があるのですが、その詳細は上記ブログをお読み頂ければと思います。
当記事では日記の記述から思うことを述べるのみと致します。
10月4日・6日の記述
岩手日報の報道にも内容が記載されていますが、ウェイバックマシンのアーカイブは表示に少し時間がかかるためこちらにも引用します。
参考のため1930(昭和5)年と1931(昭和6)年の両日の曜日1も記載します。
【10月4日(昭和5年:土曜日 昭和6年:日曜日)】
夜、高瀬露子氏来宅の際、母来り怒る。露子氏宮沢氏との結婚話。女といふのははかなきもの也【10月6日(昭和5年:月曜日 昭和6年:火曜日)】
高瀬つゆ子氏来り、宮沢氏より貰ひし書籍といふを頼みゆく
あくまでも日記なので「他人には理解しにくい書き方」になっているのは致し方ないですね。
ただ、後年読み返してみて「あの時何があったんだっけ?」と自分でも分からなくなるパターンになりそうな文だと思ったりもします。
両日の記述から色々考える
10月4日締めの言葉「女といふのははかなきもの也」
10月4日の記述は「女といふのははかなきもの也」という言葉で締められています。この「はかなき」は現在よく使われる「もろく消えやすい・不確かであてにならない」という意味で使っているのではないようです。
「はかない」は他にも(主に古文で使われる意味として)、
- めどがつかない
- 甲斐がない、無駄である
- 取るに足りない
- 思慮分別が足りない、愚かである
- 粗末である
といった意味があるそうです。
(参考:デジタル大辞泉 Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E6%9E%9C%E7%84%A1%E3%81%84?dictCode=SGKDJ)
自然な文脈となるのは3もしくは4の意味でしょう。記事初見時は「関はここまで露さんを見下してるんだな」と腹立たしい気分になりました。
ただここで登場している女性は露さんだけではありません。「母」=関の義母である岩田ヤスさんもその場面にいたのです。ですので関のこの言葉は露さんに向けてなのかヤスさんに向けてなのか、それとも二人の女性に向けてなのか判断するのは難しいところです。
ただ、いずれにしても「主語が大きい」一言ではありますね。
10月4日記述の情報に対する疑問点
4日の記述は情報が多めながら、ぶつ切りに書かれているため状況がやや分かりにくいところがあります。
夜、高瀬露子氏来宅の際、
→家に上げたのか、玄関先での立ち話だったのか?
露さんに応対したのは関本人なのか、それとも妻2なのか?
母来り怒る。
→誰に対して怒ったのか? 何に怒ったのか?
激しい怒りだったのか? 穏やかに苦言を述べる程度のものなのか?
露子氏宮沢氏との結婚話。
→それは現在進行形? それとも過去こんなこともあったという思い出話?
または「別の人との結婚話」を、他の場所で話を断片的に聞いているだけの関が「賢治とのことだ」と思い込んでいるだけ?
10月4日の出来事を想像してまとめてみる
10月4日の岩田家での出来事を上記疑問点を踏まえて想像し、詳しい記述にしてみます。
これまでの通説で伝えられている「露さんの人物像」に沿うと(最後の関の心情は省略)、
夜、高瀬露子氏が来宅。散々宮沢氏に迷惑をかけた彼女が来たと知った母は玄関に駆け出て、露子氏に鋭い目つきと「あなた、一体ここに何しに来たの!」と激しい言葉を投げつけた。(母来り怒る)露子氏はそれに一瞬怯んだがすぐに不敵な笑みを浮かべて母を睨み返し「私、やはり宮沢先生と結婚するつもりなのです。諦めませんから」と言い返した。(露子氏宮沢氏との結婚話)母は激昂し「下らないことを言わないで! ここから出ていって!」と更に激しい声を露子氏に浴びせた。だが露子氏は動じる様子も見せず一礼して去っていった。
こんな感じになると思いますが、「賢治と結婚することを諦めない」と宣言する相手が何故岩田家なのか・その2日後に「賢治からもらった本を返すよう頼む」という、あっさり諦めたかのような行動に出るのは何故かという新たな疑問が湧いてきます。
次に極力フラットな見方をした記述をしてみます。
夜、高瀬露子氏来宅。妻を呼び出す。妻と一緒に出てきた母、「こんな時間に一体どうなさったのかしら」と苦々しい表情と声でぽつりと漏らした。(母来り怒る)露子氏もこの時間の来宅に恐縮している様子で「玄関先だけで、少しの間」と妻と話を始めた。私と母は奥に下がった。妻と露子氏は声を潜めて話をしていたが、私の耳には断片的に聞こえてきた。結婚という言葉のしばらく後に宮沢氏の名前が出てきた。きっと露子氏は宮沢氏との結婚をまだ考えているということなのだろう。(露子氏宮沢氏との結婚話)
あくまでも一例ですが、こういった流れが割と自然な感じだと思います。
10月6日の記述を考える
2日後の10月6日はかなりシンプルな記述となっています。
「露さんは関に賢治からもらったという本を預けていった・賢治に返してくれと頼んでいった」という出来事があったとのこと。
もらった本の返却を第三者である関に頼むというのは、賢治に対し異性としての思いがないからこそ出来る行動ではないでしょうか。
また「近い内に迎える大きな環境変化のために身辺整理をしている」ようにも見えます。小笠原牧夫さんとの結婚が具体化していたのでしょうか。
もし通説のように散々賢治に執着し「今この時」もまだ執着が抜けてない人であれば、賢治からもらったものは「宮沢先生と私をつなぐもの」としてずっと手元に置くはずです。
曜日に関して思うこと
事情が分からないので「取るに足らない意見」になるのですがご了承ください。当時も露さんはまだ勤務校である宝閑尋常小学校の近くで下宿をしているという「事実」をもとに記述します。
10月4日、露さんは岩田家を「夜」訪問しています。昭和5年であれば土曜日。お昼に学校が引けた後実家に戻り、その後岩田家を訪問したという大変自然な流れとなります。しかし昭和6年のその日は日曜日。午後には花巻電鉄に乗り下宿に帰らなければならないはずで、夜に岩田家を訪問するのは難しいのではないかと思うのです。
そして10月6日。この日は両年とも平日です。急遽下宿先から戻って岩田家を訪れることができたのは何故なのでしょう。
もしかするとこの期間、露さんは休暇(賜暇)を取ったのかもしれません。当時お休みを頂くのは容易なことではなかったそうですが3、結婚・異動に関する準備のためであればお休みを取れないこともないでしょう。
そう考えると「昭和5年用の日記を昭和6年に使用した」というのがより自然に感じられます。
「証拠」にはならないと思う
報道では、とある賢治研究家が「昭和5年まで賢治と露さんの間に結婚話が続いていたという証拠」と述べていますが、私はそれに対し旧ブログ運営時代から「否定」の考えを持っています。
関の日記は記述が断片的、また情報も少ないので「証拠」とするには弱すぎると思うからです。
もし二人の間に結婚話が続いていたのであれば1927(昭和2)年〜1930(昭和5)年の間にも会って話す機会があったはずです。ですがそういった痕跡も見当たりません。
露さんが羅須地人協会員として賢治のもとをを訪れていた1年弱の間、賢治も露さんも互いに「結婚するのかもしれない」とほんのり思っていたのかもしれませんが、1927(昭和2)年夏に露さんが賢治を訪ねることを控えるようになったあたりでその考えは消えてなくなったと思います。
この日記から分かることは「露さんが岩田家を訪れて自身の結婚に関わる話をした、賢治からもらったという本を預けて返却を依頼した」ということだけで、それ以上の意味はないと考えます。
- 「みんなの知識 ちょっと便利帳」様>「万年カレンダー」にて調査 https://www.benricho.org/clock/calendar.html ↩︎
- 露さんと関夫人である岩田ナヲさんは花巻高等女学校の同級生 ↩︎
- 河出書房新社「図説 宮沢賢治」92〜94ページ掲載の上田哲さんのコラム「賢治をめぐる女性たち——高瀬露を中心に」より「年休のかわりに賜暇はあったが、 文字どおり賜るもので、休みをいただくのは容易ではなかった」との記述に基づく ↩︎