新版・もうひとりの”被害者”

本記事で取り上げるのは「宮沢賢治に関わったもうひとりの女性」です。

この女性は儀府成一「宮沢賢治 ●その愛と性」>172ページ「火の島の組詩」においてCと表された人です。
彼女は賢治研究において「賢治晩年期のヒロイン」のように扱われています。ですが彼女の反応を見ると「彼女も高瀬露さん同様賢治研究の被害者である」と思わざるを得ません。

旧ブログで彼女に対して・賢治研究においての彼女の扱いに対しての意見や感想を拙く綴りましたが、当ブログでも「新版」として改めて「もうひとりの”被害者”」に関する意見や感想を述べたいと思います。

旧ブログでは「彼女の名前も知っている賢治愛好家のみが読む」ことを前提としていたので色々と省いた記述になりましたが、当ブログでは彼女のプロフィールなども記載してまいります。

賢治に関わったもうひとりの女性

賢治に関わったもうひとりの女性の名は「伊藤チヱ(伊藤ちゑ)」。彼女のプロフィールと賢治との出会い・関わりは「【新】校本宮澤賢治全集第十六巻(下)」より引用します。

【伊藤チヱさんのプロフィール】
(一九〇五<明治三八>年三月一五日生、一九八九<平成元>年四月四日没)。大正一〇年三月盛岡高等女学校卒業。大正一三年東京で二葉保育園に保母として勤務。一時休職し、大島で兄の看護にあたるが、その後、保母として二葉保育園に復帰。のち脊椎カリエスと結核により病床の人となり療養につとめる。

【新】校本宮澤賢治全集第十六巻(下)補遺・資料 年譜編 374ページ 筑摩書房 

【チヱさんと賢治の出会い・関わり】
(昭和3年6月12日の項)
朝、父へ報告(中略)「今日一日泊りで大島へ行って参ります。船も大きく安心であります。」と知らせる。(中略)
訪問先の伊藤七雄・チヱ兄妹は、(伊豆大島)元村字野地六五五番地に住んでいる。伊藤兄妹は以前(年月は判明しないが羅須地人協会をはじめてからのことで、あるいはこの年の春ではないかと思われる)賢治を訪ねてきたことがあり、兄は大島で開校したい農芸学校や土壌などの助言・調査を依頼し、妹の方は賢治との見合いの意味があった。その時賢治は知らなかったが、あとで仲介者(菊池武雄といわれている)から訪問の意味をしらされたようである。

【新】校本宮澤賢治全集第十六巻(下)補遺・資料 年譜編 373〜374ページ 筑摩書房

プロフィールは兄である伊藤七雄さんと併記されているため出身地は書かれておりませんが、兄と同じく岩手県水沢町(現・奥州市)で間違いないと思われます。ご生家は水沢町の豪家、つまり裕福な家庭に生まれ育ったということですね。

東京・二葉保育園は彼女——伊藤チヱさんが勤められていた当時は貧しい家庭で暮らす子供たちを預かって養育していた施設であったとのこと。保母として勤めていたのはどのくらいの年月かは分かりませんが、とにかくチヱさんは高い意識を持つ心優しい女性であったようです。

この二葉保育園はキリスト教と深い関わりがあり、そのためチヱさんもキリスト教となにがしか関わりがあったと思われます。

森荘已池に宛てた彼女の手紙

約1日の「見合い」の後、賢治とチヱさんは顔を合わせることもなく、縁談は立ち消えのような形になっています。しかし賢治はチヱさんを結婚相手として意識していたことを友人や森荘已池に話しており、チヱさんが「賢治晩年期のヒロイン」のように扱われているのはこれが原因であると思われます。

1941(昭和16)年、自分がそのような扱いを受けていることを知ったチヱさんは「私の名前を彼と結びつけて書くのはやめてほしい」と懇願する手紙を2回、森荘已池に送っています。

手紙の内容は、個人の私信であることを考慮して当記事に引用はせず、検索結果に表示されないページを設けて掲載しました。

1通目の1941(昭和16)年1月28日付では自分の名前が活字にされたことへの困惑とつらい思いを率直に、2通目の2月17日付では「自分がいかに凡人であるか」を「(つか)れてしどろもどろ」になるまで丁寧に綴っています。

記述から見えるもの

チヱさんの手紙には彼女の必死の思いや確固たる態度がぎっしり詰まっていると感じます。それと同時に彼女の人物像や「本当のこと」も見えてきます。

見えるもの1「彼女の必死の思いと彼女の性格」

チヱさんの2通の手紙からは「賢治と結びつけて名前を公にしてほしくない」という必死の思いが伝わってきます。

前述の通り2月17日付の手紙には「自分がいかに凡人であるか・賢治という高尚な人と並べて名を記されるに値しないか」を噛み砕いて綴っています。失礼ながら「その部分が長すぎる」と思いましたが、それだけ彼女は「自分のことを書かれたくない・その気持ちを分かってほしいという必死な思い」を抱いていたのだということが感じ取れます。

迷惑であれば最初からその旨を事務的にピシャリと伝えることもできたのでしょうが、ここまで噛み砕いて丁寧に綴ったチヱさんは「優しくて真面目な人物」であることが分かります。きっと露さんとよく似たタイプなのかも…と個人的に思っています。

見えるもの2「お見合いの真実」

1941(昭和16)年1月28日付の手紙には「あの頃私の家であの方を私の結婚の対象として問題視してをりました」、2月17日付の手紙には「女独りで居られるものでは無いからと周囲の者たちに強硬にせめたてられて、しぶしぶ兄のお供をさせられて花巻の御宅に参上させられた次第で御座居ます。」と記されています。

このことから賢治が大島を訪ねた際は既に「賢治はチヱさんの結婚相手として不適格かもしれない」とされていたこと、そもそもチヱさんは結婚にあまり乗り気ではなかったことが分かります。

見えるもの3「彼女の確固たる態度」

手紙全体を通して「チヱさんの賢治に対する確固たる態度」が見える記述がなされています。

それは「チヱさんは手紙の中で賢治のことを終始「あの方」と呼んでいる(名前を呼ばない)」こと。

意識してか無意識なのか、どちらにしてもこの呼び方でチヱさんは賢治を「限りなく無関係に近い間柄」と考えていることが分かります。
もし意識してこういう呼び方にしているのであれば「私は彼とはほぼ無関係なのです」と強くアピールしていることになります。

本当にチヱさんは「賢治と結びつける形で名前を出されること」を嫌がっていたのですね。

「聖女のさましてちかづけるもの」

高瀬露さんの愚行が実際にあった証拠として挙げられる賢治の殴り書き「聖女のさましてちかづけるもの」。内容は以下の記事に記載しております。

この「聖女のさま」をした女性は実はチヱさんであるようだという意見が上がっています。

参考:「思考実験<賢治ちゑに結婚を申し込む>」・「「聖女のさましてちかづけるもの」は限りなくちゑ」(ブログ「みちのくの山野草」様)

大島での「お見合い」の際、チヱさんは賢治の態度を見て「何かしらとても巨きなものに憑かれてゐらっしゃる御様子と、結婚などの問題は眼中に無い」、平たく言えば「私に興味はない様子」と判断し、縁談はここで終わりとしたようです。

当時のチヱさんは賢治をどちらかというと軽蔑寄りの目で見ていたようで、東京に戻った後知人に「つまらない人1とお見合いした」と話していたそうです。

しかし賢治は、チヱさんに対しある程度の興味を抱いていたようでした。
チヱさんが保母の仕事に復帰し再び東京での生活を送っていた頃、そのことを聞いた賢治は「自分との縁談があった後独身を貫いている=自分のことを待っている」と盛大な勘違いをします。

その後賢治は東京のチヱさんのもとを訪れ、見事玉砕。おそらく1931(昭和6)年9月の「化粧煉瓦の売り込みのための上京」の際にこの行動に及んだのではないかと考えられます。

賢治は意気消沈して花巻に戻り、寝込んでしまいます。その際(10月24日頃)に書かれたのが「聖女のさましてちかづけるもの」だったのでは…ということです。
前述したようにチヱさんもキリスト教と関わりがあるので、「聖女のさま」をした女性に当てはまりますね。

「聖女のさましてちかづけるもの」は「フラれた男性の恨み言」だったということなんですね。

それから亡くなるまでの賢治にとって、一連の出来事は「恥ずかしい過去」に、チヱさんは「忘れてしまいたい存在」となったと思います。
彼がもう少し長生きしていたら「聖女のさましてちかづけるもの」は彼の手によって破棄されていたかもしれません。

「賢治とチヱさんを結びつけて書くことは、賢治の心を抉る行為である」とも言えるのではないでしょうか。

彼女の「心の底からの叫び」に向き合おう

チヱさんは、2月17日付の手紙の終わり近くにこのような印象的な言葉を記しています。

ちゑ子を無理にあの人に結びつけて活字になさる事は、深い罪悪とさへ申し上げたい。

この言葉はチヱさんの心の底からの叫びであったはず。しかし森はそれも無視し、勝手に手紙の内容を晒し上げるようなこともしてしまいました。

それを知ったチヱさんの心情は如何ばかりだったか。森に深く失望したのは当然のこと、きっと「宮沢賢治」という名前をはじめ、賢治に関すること全てに対しても「世界から排除したい」と考えるほどになってしまったのではないでしょうか。

森は本当に「賢治とチヱさんを結びつけて書くことは二人にとって良いことである」と考えていて、チヱさんの訴えが理解できず、受け入れられなかったのかもしれません。
しかしここで重視するべきは「自分の善意」ではなく「チヱさんの言葉」。森がそれに気付けなかったのは残念だと感じます。

後に続いた幾名かの自称賢治研究家たちもチヱさんの心の底からの叫びを軽視し、果てはとある映画で「賢治と淡い思いを交わす」ような描写までされてしまいました。

森も、自称賢治研究家たちも、上記映画製作者も「チヱさんの思いを更に踏みにじり賢治の心を抉り続ける深い罪悪」を犯してしまったと言えるでしょう。

賢治研究に携わる方々・将来賢治研究に携わろうと考えているお若い方々には、どうかこれ以上の「深い罪悪」を重ねないよう、チヱさんの「心の底からの叫び」に向き合い彼女の思いを尊重して頂きたいと思っております。

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  1. 実際はもう少し強い言葉を使っていたそうですが、当ブログではそれをそのまま記すのは避け、意訳的な表現にいたしました ↩︎
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