整理のための年表

この年表は、評伝・出来事を整理するために作成したものです。
宮沢賢治・高瀬(小笠原)露さんの職歴と羅須地人協会発足以前の二人の動向も併記しております(本文中敬称略)

各評伝・出来事は以下の色で書き分けております。
定説・史実/不確定な出来事擁護系の主張する出来事悪評系の主張する出来事

1918年(大正7年)

宮沢賢治:21〜22歳 高瀬露:16〜17歳

3月15日宮沢賢治、盛岡高等農林学校卒業、同校の研究生となる。
3月24日高瀬露、岩手県立花巻高等女学校卒業。1
5月6日高瀬露、和賀郡黒沢尻町(現・北上市)黒沢尻尋常高等小学校に代用教員・准訓導として赴任。
7月4日頃宮沢賢治、肋膜炎を患い花巻の実家へ帰る。
12月25日宮沢賢治、妹トシの看病のため母と共に上京。

1919年(大正8年)

宮沢賢治:22〜23歳 高瀬露:17〜18歳

3月3日宮沢賢治、母・叔母・退院した妹トシと共に花巻へ戻る。

1920年(大正9年)

宮沢賢治:23〜24歳 高瀬露18〜19歳

5月20日宮沢賢治、盛岡高等農林学校研究生修了。
8月10日高瀬露、和賀郡笹間村(現・花巻市)笹間尋常高等小学校に転任
(尋常科訓導・本科正教員)

1921年(大正10年)

宮沢賢治:24〜25歳 高瀬露:19〜20歳

1月23日宮沢賢治、家族に無断で上京。
8月11日高瀬露、笹間尋常高等小学校を退職、
花巻町(現・花巻市)向小路の実家に戻る。
8月中旬〜9月初旬宮沢賢治、妹トシの病気を知らされ花巻に戻る。
9月26日高瀬露、花巻バプテスト教会にて受洗、キリスト教徒となる。
12月3日宮沢賢治、稗貫郡立稗貫農学校(後の岩手県立花巻農学校)の教諭となる。

1922年(大正11年)

宮沢賢治:25〜26歳 高瀬露:20〜21歳

11月27日宮沢トシ死去(24歳)

1923年(大正12年)

宮沢賢治:26〜27歳 高瀬露:21〜22歳:

9月21日高瀬露、稗貫郡湯口村(現・花巻市)宝閑尋常小学校に赴任、
勤務校近くに下宿。2

1925年(大正14年)

宮沢賢治:28〜29歳 高瀬露:23〜24歳

秋(月日不明)森荘已池、宮沢賢治を訪問する途上で「上気した様子の」高瀬露とすれ違う。3

1926年(大正15年・昭和元年)

宮沢賢治:29〜30歳 高瀬露:24〜25歳

3月31日宮沢賢治、花巻農学校を依願退職。
4月1日宮沢賢治、下根子桜の別宅にて独居自炊の生活を始める。
8月23日羅須地人協会の活動始まる。
秋(月日不明)高瀬露、高橋慶吾の紹介で羅須地人協会の会員となる。
時季不明宮沢清六(賢治の弟)、パン屋を営むロシア人を連れて宮沢家別宅来訪、
賢治・先客の高瀬露・パン屋と共にレコード鑑賞をする。4
12月2日〜29日宮沢賢治、上京しタイピング、エスペラント語、オルガン、セロの特訓をする。

1927年(昭和2年)

宮沢賢治:30〜31歳 高瀬露:25〜26歳

時季不明宮沢清六(賢治の弟)、パン屋を営むロシア人を連れて宮沢家別宅来訪、
賢治・先客の高瀬露・パン屋と共にレコード鑑賞をする。5
5月下旬〜6月上旬高瀬露、単独訪問を宮沢賢治にたしなめられ、以後訪問を遠慮するようになる。6
6月9日高瀬露、紹介者の高橋慶吾に宛ててハガキを出す。
6月中旬以降高瀬露の単独訪問はなおも続き、賢治は彼女を避けるために押し入れに隠れる・
顔に灰を塗る・感染症を患っていると嘘をつくなどの行動を取る。7

1928年(昭和3年)

宮沢賢治:31〜32歳 高瀬露:26〜27歳

前年〜本年5月頃この期間内に以下の出来事が起こる。
・高瀬露の度々の来訪に辟易した宮沢賢治は彼女を遠ざけるために様々な奇行を起こす
・賢治からの布団の贈り物に喜んだ露が新婚生活のための準備を始める
・賢治と露がライスカレー事件を起こす
8
6月12日〜14日宮沢賢治、大島へ伊藤七雄・チヱ兄妹を訪問する。
6月中旬頃高瀬露、この頃から賢治の態度を恨み、女学校時代の同級生である関登久也夫人ナヲに訴え、さらには賢治の中傷をして歩きはじめる。9
8月10日宮沢賢治、両側肺浸潤と診断され実家へ戻り臥床。
8月中旬頃〜宮沢賢治と高瀬露の関係はこの頃自然消滅する。10
秋(月日不明)森荘已池、宮沢賢治を訪問する途上で「上気した様子の」高瀬露とすれ違う。11
12月宮沢賢治、急性肺炎にかかりこの後約1年臥床生活を送る。

1929年(昭和4年)

宮沢賢治:32〜33歳 高瀬露:27〜28歳

時季不明宮沢賢治と「女性と思しき相手」との間に何通かの手紙のやりとりがある。12
手紙の相手は高瀬露で、相談事を持ち込んだり法華経に関心を持つ等の発言で賢治の気を引こうと試みたが効果はなく、それを恨みに思った露は後に賢治の中傷をして歩くようになる
(関登久也およびその妻で露の同級生であるナヲの証言がある)13

1930年(昭和5年)

宮沢賢治:33〜34歳 高瀬露:28〜29歳

10月4日高瀬露、関登久也宅を訪問。宮沢賢治との結婚話をし関の義母の怒りを買う。
10月6日高瀬露、宮沢賢治から貰ったという本の返却のため関登久也宅を訪問。
関にその旨言付ける。14

1931年(昭和6年)

宮沢賢治:34〜35歳 高瀬露:29〜30歳

本年前半頃高瀬露、小笠原牧夫と見合いか。
1月宮沢賢治、東北砕石工場の嘱託技師となる。
9月20日宮沢賢治、化粧煉瓦の売り込みのため上京、道中夜行列車の中で冷風にさらされたため発熱。
9月27日宮沢賢治、父の厳命により花巻へ戻る。
10月4日高瀬露、関登久也宅を訪問。宮沢賢治との結婚話をし関の義母の怒りを買う。
10月6日高瀬露、宮沢賢治から貰ったという本の返却のため関登久也宅を訪問。
関にその旨言付ける。15
10月24日宮沢賢治、「雨ニモ負ケズ」手帳に「聖女のさましてちかづけるもの」を記す。
この文は高瀬露とのことを書いたものである。

1932年(昭和7年)

宮沢賢治:35〜36歳 高瀬→小笠原露:30〜31歳

3月31日高瀬露、この日付で宝閑尋常小学校を退職、
上閉伊郡上郷村(現・遠野市)の上郷尋常高等小学校に転任。
4月11日高瀬露、小笠原牧夫と結婚。小笠原姓となり遠野に移り住む。
秋頃宮沢賢治、「知人の女の人(=高瀬露:関夫妻の証言あり16」が自分のことを「中傷的に言っている」ことに関し誤解をされないよう「了解を求め」に関登久也宅を訪ねる。17
小笠原露、長女を懐妊し体をいたわるために遠野からの遠出を避けていた。18

1933年(昭和8年)

宮沢賢治:36〜37歳 小笠原露:31〜32歳

9月21日宮沢賢治、死去(37歳)

1934年(昭和9年)

宮沢賢治:没後1年 小笠原露:32〜33歳

3月21日小笠原露、上閉伊郡松崎村(現・遠野市)松崎尋常高等小学校に転任、
松崎農業補修学校助教諭を兼任する。

1935年(昭和10年)

宮沢賢治:没後2年 小笠原露:33〜34歳

5月11日小笠原露、上閉伊郡松崎村(現・遠野市)松崎尋常高等小学校の看護婦を嘱託。

1936年(昭和11年)

宮沢賢治:没後3年 小笠原露:34〜35歳

3月31日小笠原露、上閉伊郡青笹村(現・遠野市)青笹尋常高等小学校に転任、
青笹青年学校指導員を嘱託。

1939年(昭和14年)

宮沢賢治:没後6年 小笠原露:37〜38歳

3月31日小笠原露、上閉伊郡附馬牛村(現・遠野市)東禅寺尋常高等小学校に転任。
11月機関誌「イーハトーヴォ」創刊。
高瀬(小笠原)露の悪評のきっかけとなる高橋慶吾の談話が掲載される。
12月13日小笠原露、露草の名で「賢治先生の霊に捧ぐ」と題した短歌5首を詠む。

1940年(昭和15年)

宮沢賢治:没後7年 小笠原露:38〜39歳

2月21日前年12月の小笠原露の短歌が「イーハトーヴォ」第4号に掲載される。
3月31日小笠原露、遠野町(現・遠野市)遠野尋常高等小学校に転任。
9月1日小笠原露、当時の勤務校である遠野小学校にて「賢治の集ひ」を開催、賢治を偲ぶ短歌を4首詠む。
9月21日9月1日に小笠原露が詠んだ短歌が「イーハトーヴォ」第10号に掲載される。

1943年(昭和18年)

宮沢賢治:没後10年 小笠原露:41〜42歳

9月20日関登久也、協栄出版社より「宮沢賢治素描」出版。
羅須地人協会員の座談会(「賢治のもとに足繁く通ったり勝手にライスカレーを作ったりなどして賢治を辟易させた女性」について語っている)が収録される。

1944年(昭和19年)

宮沢賢治:没後11年 小笠原露:42〜43歳

1月14日小笠原露、遠野国民学校を退職。

1945年(昭和20年)

宮沢賢治:没後12年 小笠原露:43〜44歳

12月19日小笠原露、夫・小笠原牧夫(享年52)と死別。

1948年(昭和23年)

宮沢賢治:没後15年 小笠原露:46〜47歳

8月31日小笠原露、上閉伊郡遠野町立(現・遠野市)遠野小学校に養護教諭として赴任。

1950年(昭和25年)

宮沢賢治:没後17年 小笠原露:48〜49歳

3月31日小笠原露、上閉伊郡青笹村立(現・遠野市)青笹小学校に転任。

1951年(昭和26年)

宮沢賢治:没後18年 小笠原露:49〜50歳

3月25日小笠原露、カトリックに転会、遠野カトリック教会で受洗。

1954年(昭和29年)

宮沢賢治:没後21年 小笠原露:52〜53歳

12月1日青笹村が近隣7町村と合併、遠野市となる。
これにより小笠原露は遠野市立青笹小学校養護教諭となる。

1960年(昭和35年)

宮沢賢治:没後27年 小笠原露:58〜59歳

3月1日小笠原露、遠野市立青笹小学校を退職。

1970年(昭和45年)

宮沢賢治:没後37年 小笠原露:68歳

2月23日19小笠原露、帰天(68歳)

1977年(昭和52年)

宮沢賢治:没後44年 小笠原露:没後7年

「高瀬露宛てのものと判明20していたが、高瀬の私的事情を慮って公表を控え」られていた昭和4年の書簡下書252a、252b、252c及び15点の下書断片が、この年筑摩書房より発行された「校本宮澤賢治全集」第14巻にて初めて「高瀬露宛て」として発表。
高瀬露の名はこの時事実上「初めて」世に出る。

1996年(平成8年)

宮沢賢治:没後63年 小笠原露:没後26年

宮沢賢治生誕100年。関連イベントの開催や書籍の発行などが相次ぐ。
関連映画は2本公開。どちらも高瀬露像を悪評通りに描いている(中傷して歩く描写はない)

2003年(平成15年)

宮沢賢治:没後70年 小笠原露:没後33年

7月28日宮沢賢治と高瀬露の間に具体的な結婚話があったことを匂わせる記述のある
関登久也の日記(昭和5年6年の項参照)が北上市の古書店で見つかる。21
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  1. 高瀬露の経歴は、上田哲「「宮沢賢治伝」の再検証(二)ー<悪女>にされた高瀬露ー」より引用 ↩︎
  2. 勤務校・下宿先は下根子桜の宮沢家別宅より約5〜6キロ離れた場所にあった ↩︎
  3. 森荘已池「ふれあいの人々 宮沢賢治」P17「高雅な和服姿の”愛人”」に記述あり ↩︎
  4. 「ロシア人のパン屋」と題されて伝わるエピソード。翌年の出来事とも思われる ↩︎
  5. 「ロシア人のパン屋」と題されて伝わるエピソード。前年の出来事とも思われる ↩︎
  6. 上田哲「図説 宮沢賢治」>「賢治をめぐる女性たち——高瀬露を中心に」に記述あり ↩︎
  7. 小倉豊文「宮沢賢治「雨ニモマケズ手帳」研究」>「12「聖女のさましてちかづけるもの」」に記述あり ↩︎
  8. 儀府成一「宮沢賢治 ●その愛と性」>「やさしい悪魔」に記述あり ↩︎
  9. 儀府成一「宮沢賢治 ●その愛と性」>「火の島の組詩」に記述あり ↩︎
  10. 森荘已池「宮沢賢治の肖像」>「宮沢賢治と三人の女性」に記述あり ↩︎
  11. 森荘已池「宮沢賢治の肖像」>「宮沢賢治と三人の女性」に記述あり ↩︎
  12. その手紙は賢治が保管していた下書きしかなく記述も断片的、また宛先も記載されていないため、やりとりの相手を断定することはできない ↩︎
  13. 小倉豊文「宮沢賢治「雨ニモマケズ手帳」研究」>「12「聖女のさましてちかづけるもの」」に記述あり ↩︎
  14. 岩手日報2003年7月29日掲載 http://web.archive.org/web/20060622011052/http://www.iwate-np.co.jp/kenji/tk20037-10.html#2003.0729 ↩︎
  15. 昭和5年の出来事として不自然・関の日記の曜日欄が消されている点から本年の出来事とも考えられる 参考:https://blog.goo.ne.jp/suzukishuhoku/e/5692c0f7dcc3d0fda20fb4dcdb5d8a6d ↩︎
  16. 小倉豊文「宮沢賢治「雨ニモマケズ手帳」研究」>「12「聖女のさましてちかづけるもの」」に記述あり ↩︎
  17. 関登久也「宮沢賢治素描」>「面影」に記述あり ↩︎
  18. 上田哲「図説 宮沢賢治」>「賢治をめぐる女性たちーー高瀬露を中心に」に記述あり ↩︎
  19. 上田哲氏の文献には「7月23日」とあるが、誤記もしくは誤植と思われる ↩︎
  20. その根拠・理由は全く述べられていない ↩︎
  21. 岩手日報2003年7月29日掲載 http://web.archive.org/web/20060622011052/http://www.iwate-np.co.jp/kenji/tk20037-10.html#2003.0729 ↩︎
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