周囲の人々の証言(2)

知りたい人
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「高瀬露さんの関係者が話す露さんの姿」をもっと見てみたいと思います。

上田哲さんが「「宮澤賢治伝」の再検証(二)ー<悪女>にされた高瀬露ー」で次に紹介しているのは遠野市立青笹小学校で1957(昭和32)年〜1960(昭和35)年の3年間同僚として勤務していたKSさんという男性。彼は教員としての露さんの姿を鮮明に記憶されていたとのことです。以下に引用します。

「小笠原先生は、当時養護教諭として勤務しており、児童の健康管理と保健の授業をしていました。仕事ぶりは真面目で熱心な方でした。良く気のつく世話好きな人だったので児童からもしたわれていました。それから人ざわりの良い、物腰の丁寧な人で、意見が違っても逆わない方だったので同僚や上司、父兄、周囲の人々に好感を持たれていました。普段は目立たない人でしたが、興に乗るとよく話をしました。」

上田哲「「宮澤賢治伝」の再検証(二)—<悪女>にされた高瀬露—」1996(平成8)年

賢治と交流があったことについては「いつだったか、そういう話を露さんから聞いたことがある」という程度だったとのこと。

知りたい人
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賢治との交流に関しては簡単にしか話していなかったんだね。そういえば前記事で紹介したKEさんにもそういった感じの話し方だったな。

次に、遠野におられた様々な人々の証言を引用します。

カトリック教会関係は、彼女が健在であるので調査のようなかたちはとれないから世間話の中で それとなく彼女のことを聞いたところ「熱心な信者さんで親切な方」という異口同音の評価だった。次にわたしが『岩手短歌』の発行人、県歌人クラブの役員だったのと彼女も短歌を作っているので短歌にかこつけて 土地の歌人たちをたずね彼女と交流のあった人々からこれもそれとなく聞き出したところ評判がよかった。中には彼女の教え子の親もいた。ただ賢治の教え子で遠野地区の教員を歴任した高橋武治(入婿で改姓—沢里)の周辺と婚家にかかわる人々の間では 「悪女」説が信じられ彼女の評判は悪かった。最後に小笠原露のカトリック入信の導き手となったMYは、小笠原露を高く評価し模範的信者で、家庭の子供たちに対する宗教教育も適切であり、母親の感化で娘の一人はゲオルグの聖フランシスコ会の修道女になっている、と語っている。MYは露の信仰生活についていろいろ具体的な例をあげて彼女を奨揚しているが省略する。

上田哲「「宮澤賢治伝」の再検証(二)—<悪女>にされた高瀬露—」1996(平成8)年
知りたい人
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すごく具体的でわかりやすいね。賢治の教え子周りでだけ評判が良くなかったのはちょっと残念。これだけ評価が高いのも「外面が良いだけ」と捉えていたんだろうね。

他の賢治研究本からも、露さんの教え子さん(女性)から聞き取りをした話を引用します。

遠野市上郷小学校の校長TJ氏が、当時の卒業生のOKさんの話を聞いて報じて下さった。
――五、六年生の時、裁縫と唱歌を教わった。やさしく物静かな先生で、いつもきれいな着物を着ていた。おなかが大きく授業中にいねむりをしていたこともあった、という。
わたし(米田)も、スキー場の賄いをしている、昭和九年の卒業生で七四歳
(引用者注・執筆当時)のOKさんを訪ねた。
――色の白い、ひたいつきなど歌手の藤あや子そっくりのきれいな先生で、語れば朗らかな人だけれど、泣きたいような顔をする時もあったのす、なんとなく悲しいことがあるようだったんす、あとで考えると、昭和八年に宮沢賢治が亡くなった、その頃だったんだべか、と言う。

米田利昭「宮沢賢治の手紙」 大修館書店 1995(平成7)年
知りたい人
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こういう証言もあったんだね。言葉は少ないけど、露さんの「実際の姿」が更にはっきり見えてくるよ。「泣きたいような顔をすることもあった、なんとなく悲しいことがあるようだった」という言葉が何だか切ない…。

KEさん・KSさんの証言にも出ていた「優しい」「控えめ」に通ずる言葉も出ています。

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