周囲の人々の証言(1)

当記事から高瀬露さんの「実際の姿」を資料から引用し、感想・意見などを書いていきたいと思います。

上田哲さんは、論文「「宮澤賢治伝」の再検証(二)ー<悪女>にされた高瀬露ー」を執筆するにあたり「日頃露さんと交流を持っていた(賢治との噂は知らない)人々」の声を集めていました。

知りたい人
知りたい人

そういえば、賢治研究の資料で「露さんの姿」を話しているのはまず「宮沢賢治に近しい人物」、その次が「賢治に近しい人物に近しい人物」だよね。露さんの関係者の証言は全く無い。それだけに、そういった人々が話す「露さん」は興味深いね。

露さんをよく知る人物としてまず紹介されているのは露さんの二人の娘の幼馴染みで幼い頃から露さんを知っていたという遠野市在住の歌人・KEさんという男性。彼は「露さんが賢治と交流を持っていた」ことも彼女から聞いていたとのことです。KEさんの露さん評を以下に引用します。

「露さんは、「賢治先生をはじめて訪ねたのは、大正十五年の秋頃で昭和二年の夏まで色々お教えを頂きました。その後は、先生のお仕事の妨げになっては、と遠慮するようにしました。」と彼女自身から聞きました。露さんは賢治の名を出すときは必ず先生と敬称を付け、敬愛の心が顔に表れているのが感じられた
(中略)
「露さんを小学校の友だちの母親として知っていたが、親しくなったのは十代の終わりの頃。結核で入院していたわたしを多忙な主婦と教員の生活を割いて度々見舞に来てくれた。自分が娘の幼友達だったということからではなく病人、老人、悩みをもつものを訪問し力づけ、扶けることがキリスト者の使命と思っていたのである。彼女は私だけでなく多くの人々に暖かい手を差し伸べていることがいっとはなしに判り感動した。わたしも彼女に大分遅れて同じカトリック信者になったが、昔の信者の中には、露さんのような信者をよく見かけたが、今の教会にはいない。露さんは、「右の手の為す所左の手之を知るべからず」というキリストの言葉を心に深く体していたような地味で控えめな人だった。また、世話ずきで優しい人で見舞の時枕頭台やベッドの廻りの片付けなどをしてくれた。それとともに誇り高く自分を律するのに厳しい人で、不正やいい加減が大嫌いだが、他人の悪口や批判を決して口にしなかった。ただ、後輩や若い人には、先輩としての義務観から忠告や注意をして誤解されるようなこともあったようだ。

上田哲「「宮澤賢治伝」の再検証(二)—<悪女>にされた高瀬露—」1996(平成8)年
知りたい人
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「右の手の為す所左の手之を知るべからず」…ググってみました。新約聖書「マタイによる福音書」六章にある言葉で、現代語にすると「右の手のすることを左手に知らせてはならない」…つまり「善行はこっそりとやりなさい」という意味だそうです。「後輩や若い人には先輩としての義務感から忠告や注意をして誤解されることもあったようだ」という言葉が後々キーになりそう。

上田さんはここでKEさんに「賢治研究者の間に流布されている賢治と露さんの話」をします。それを聞いたKEさんは以下のような反応をします。

そんなひどい話があるとは知らなかった。露さんが、そういう淫らな女とは思われない。男女の交際などについての倫理観はむしろ保守的で戦後の若い人々の男女交際の在り方に批判的な話をしていたくらいである。」

上田哲「「宮澤賢治伝」の再検証(二)—<悪女>にされた高瀬露—」1996(平成8)年
知りたい人
知りたい人

KEさん、めっちゃ驚いてるし憤ってる…。「ひどい話」と言われたらそれは確かにその通り。それを一時期でも信じていたことがより情けなくなってくる…。

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