当記事では「中傷行為」伝説に関する文献を読んでいて起こる疑問の1つ目「それはいつ起こったことなのか」について、そしてそれを考えているうちに新たに起こった疑問について考えていきたいと思います。
具体的な時期はいつなのだろう
上田哲さんは前記事にて引用した「賢治をめぐる女性たちーー高瀬露を中心に」に於いて、宮沢賢治が関徳弥に「自分を中傷している女性がいる」ことについて誤解のないよう了解を求めに行った1932(昭和7)年秋頃の出来事と推定しているようですが、それは不自然だと思います。
1932(昭和7)年秋頃といえば、賢治と高瀬露さんの交流が途絶えた1927(昭和2)年夏頃から約5年という時間が経過しています。
様々なケースがありますが、基本的に中傷行為というのは人間関係のトラブルが発生してから間も無く始まるものであり、時間をおいたとしてもせいぜい数ヶ月程度というのが普通ではないでしょうか。
5年も時間をおけばそれなりに頭も心も冷えてしまい「当時を思い出してモヤモヤした気持ちを抱く」ことはあっても、わざわざ他人に悪口を吹聴して回ろうなどという気までは起こらないと思います。
ですので、私は「中傷行為の発生」を(本当にあったのであれば)1928(昭和3)年と推定し、当ブログのコンテンツ「整理のための年表」に1928(昭和3)年〜1929(昭和4)年ごろの出来事と記載しました。
確実性が高いのは1928年6月中旬から数週間程度と考えます。その理由は悪評系が述べる理由を総合して「賢治が伊豆大島に住むCという女性を訪ねに行ったことを知った露さん、その行為と賢治の自分に対する仕打ちに対して嫉妬と恨みを抱いた」ということになるでしょう。
1929(昭和4)年は「悪評系文献の主張」に従って書いたまでであり、確実性は低いと考えています。というのも、この時期は「賢治と女性と思しき相手との間で手紙が何通かやり取りされていた」とされており、通説では「やり取りの相手は露さん」ということになっています。
gooブログ版で「中傷行為」を考えていた2007(平成19)年当時私もこの手紙(下書き)を「賢治と露さんのやりとり」と信じ込み「中傷行為の時期を考える材料」にしていました。しかしこの手紙、相手が露さんと言える決め手がない1ため「中傷行為の時期を考える材料」とするに値しません。
ですので当ブログでは1929(昭和4)年の可能性を除外いたします。手紙に関しては、カテゴリ「謎の『文書』」で扱っていきたいと思います。
では話を戻して、中傷行為の発生時期は1928(昭和3)年6月中旬頃から数週間程度と考えます。
ずいぶん短いなと思われるかもしれませんが、インターネットもSNSもない時代、地方に住む無名の女性ができる「中傷行為」はせいぜい顔見知りの数人に話す程度、そこから口コミで広がってもせいぜい地区単位、話を聞く相手も話す本人も次第に飽きてしまい行動も話も自然消滅してしまうのが普通です。
文章にし書籍にまとめて不特定多数の人々に流布するという方法をとったというのであれば、何も知らない第三者が信じ込むという形で中傷行為が長い間継続されてしまう可能性もあるでしょう。このようなことはなかなかできるものではありませんが。
ここで新しい疑問が湧いてくるのです。
約4年も放置?
新しい疑問はこちら。「約4年もの間本人や周辺の対応がなかったのは何故?」
1932(昭和7)年秋頃、「自分を中傷している女性がいる」ことを知った賢治は「誤解のないよう了解を求めに」親類である関徳弥を訪ねます。前項で私が推定した「中傷行為の発生時期」である1928(昭和3)年6月中旬ごろから数えると約4年後ということになります。
前項で述べたとおり、中傷がある程度広がったとしても4年も継続するとは考えられません。また4年もの間賢治やその関係者に「賢治が中傷されている」という話が全く届かないということも考えられません。
中傷行為が始まって程なくして賢治やその関係者の知るところとなったはずです。それなのに中傷の的となった賢治も関係者もこの4年の間何もしていなかったのは何故なのでしょうか。
賢治本人は1928(昭和3)年夏および同年12月から約1年、両側肺浸潤や急性肺炎といった重病を患い自宅で臥床生活を送っています。それゆえに「中傷行為」へ対応できなかった可能性もあります。しかしそうなると「家族が対応しなかったのは何故なのか」という話になってしまいます。
賢治の関係者の耳に「中傷行為」の話は届いたが、彼らは臥床中の賢治を慮ってずっと話を伏せていたということなのでしょうか。それでも「賢治に事を伏せたまま対応するのが自然なのではないか」という疑問が生まれてしまいます。
では「中傷行為を取るに足らないことと考えたため放置していた」ということでしょう。前項でも言ったようによほどの手段を取らなければ長く続くものではないですからね。
…となると、賢治はなぜ4年も経った1932(昭和7)年秋になって「中傷行為に対して」関に了解を求めに行ったのでしょうか。
露さんは割と粘着質な性格で、4年経ってモヤモヤが再燃して賢治の中傷を再開したということなんじゃない?
2回もやられたら流石に放置できないと賢治も動いたんだろうよ。
…と考えることもできるでしょうが、1932(昭和7)年秋の露さんの状況はどうだったか、次項で考えてみましょう。
1932(昭和7)年秋の彼女の状況
まずは当ブログの「整理のための年表」>1932(昭和7)年の項を見てみましょう。
すでに露さんは花巻にいません。同年4月に小笠原牧夫さんと結婚し、婚家のある遠野、正確には遠野町の南東にある上郷村で小学校の先生を続けながら暮らしているのです。
だからって、賢治の中傷をしていないという証拠にはならないでしょ?
仕事が終わった後上郷村から花巻に出向いて悪口を言いふらすってこともできるはずだし…。
ではここで、前記事でも引用した上田哲さんの文献を引用します。
しかし、当時の彼女は、賢治の中傷をして歩くために花巻まで出かけられるような状況ではなかった。彼女のいた上郷村は、遠野から村二つ隔てた東方八キロの地点にあり、遠野駅までの通常の交通手段は徒歩であった。花巻までは、当時は二時間近くかかった。本数ももちろん少なかった。朝出ても、ちょっと用事が手間どると泊まらなければならなかったと聞いている。また、そのころ長女を懐妊していて、産休はなく、年休のかわりに賜暇はあったが、文字どおり賜るもので、休みをいただくのは容易ではなかった。こんな状況なので体をいたわり遠出をさけていたという。
上田哲「図説 宮沢賢治」>94ページ「賢治をめぐる女性たちー高瀬露を中心に」 河出書房新社 1996(平成8)年
上田さんは上郷村の最寄駅を遠野駅としていますが、上郷村にも岩手上郷という駅があります。なお当時の花巻〜遠野〜岩手上郷を通る鉄道は国鉄釜石線ではなく「岩手軽便鉄道」という軽便鉄道でした。
岩手軽便鉄道をちょっと調べてみると、1934(昭和9)年11月1日ダイヤ改正時点で以下の通り。
1日の運行本数:全線(花巻〜仙人峠)2往復、花巻〜遠野2往復半
全線所要時間:上り(仙人峠→花巻)3時間40分、下り(花巻→仙人峠)4時間15分
全線運賃:並等1円14銭、特等1円71銭
(Wikipedia - 岩手軽便鉄道より)
岩手上郷駅は終点の仙人峠駅の花巻方面3つ先にあたります。だいたい行きは2時間ほど、帰りは3時間ほどかかると考えられます。しかも1日2往復(片道2本)しかありません。露さんが小学校での勤務を終えてから花巻に行き、悪口を言いふらした後その日のうちに上郷村に帰るなど不可能です。
それ以前に人の悪口を言うためだけに往復約5時間・2円28銭〜3円42銭という時間とお金をかけようなんて気になるでしょうか。当時の露さんはまだ慣れきれていない土地におり、第一子を身籠ってもいるから、目の前にある「生活」で手一杯なはずです。
現代でも「退勤後に遠野市上郷町から花巻市に出向いて人の悪口を言いふらして歩く」行為はなかなか骨が折れるようですね。小学校の勤務を終えた後に乗れそうな電車は2本2・片道所要時間は最高1時間26分・花巻から岩手上郷に戻る最終電車は20時54分発3、自家用車でも片道所要時間は1時間前後ですから。
参考までに、遠野市立上郷小学校から露さんのご生家近辺である花巻市桜町2丁目までの自家用車使用ルートマップを貼付します。
まあ現代はインターネット+SNSという手段がありますが…。4
では、賢治との交流が途絶えた1928(昭和3)年から小笠原牧夫さんと結婚する前年の1931(昭和6)年の約3年間はどう?
「露さんの無実」を証明できる材料はあるの?
この3年間に関しては「中傷の内容は具体的に何だったのか」「露さんが賢治の中傷をしているところを見た人がいるのか」を考える必要があります。それはまた次記事で考えることにします。
- 読者の方からのコメントで気づきました。考えの足りなさを恥じております。 ↩︎
- ジョルダン時刻表>岩手上郷駅(釜石線・花巻方面)参照・2024年8月17日閲覧の時刻表に基づいて記載 ↩︎
- ジョルダン時刻表>花巻駅(釜石線・釜石方面)参照・2024年8月17日閲覧の時刻表に基づいて記載 ↩︎
- 念のため申し上げますが、インターネット+SNSを用いての誹謗中傷行為を肯定・推奨する意図は全くございません。 ↩︎