「悪評」の出どころについて考える

上田哲さんの論文「「宮澤賢治伝」の再検証(二)ー<悪女>にされた高瀬露ー」はライスカレー事件に言及し始めたあたりで「未完」という形で終わってしまい、残念ながらライスカレー事件及び「悪評」の検証や考察はなされないまま、上田さんは他界されてしまいました。

そこで個人的に、当記事から「高瀬露さんの悪評」の出どころや原因・伝わり方やそこから見えるものなどを考え、意見や感想を述べていきたいと思います。

まずは「出どころ」から。

「悪評」の出どころは「ある男性」

上田哲さんの「「宮澤賢治伝」の再検証(二)ー<悪女>にされた高瀬露ー」及び小倉豊文さんの「宮沢賢治「雨ニモマケズ手帳」研究」を読んでいくと必ず出てくる名前があります。

それは「高橋慶吾」という男性。

宮沢賢治と露さんの縁を繋いだとされる人物ですが、彼は一体何者なのでしょうか。

えさし☆ルネッサンス」という岩手県江刺郡・江刺市(現・岩手県奥州市)出身の文化人や芸術家を紹介しているサイトに彼のプロフィールが掲載されていましたので引用させていただきます。

▼高橋慶吾
明治39年(1906)12月28日~昭和53年(1978)4月23日
 江刺郡稲瀬村出身。父は稲瀬村や花巻川口町などの養蚕教師や麦作指導を通じて賢治を知っていた。父は慶吾の将来を案じ、農耕自炊中の賢治を訪問させた。以後羅須地人協会に出入りし、楽団でヴァイオリンを弾いたりした。
 賢治は高橋の職を心配し、昭和2年レコード交換会を開かせた。3年には共済組合を組織し、さらに消費組合とした。のち、この事業のうちの牛乳販売を続けたが戦時中は休業。戦後は豆腐製造業。
 少年時からキリスト教信者だったが、賢治の影響により仏教を信仰、昭和43年出家、慶雲と号し無寺托鉢の生活を送った。家で賢治遺墨店を開いた。

えさし☆ルネッサンス>宮沢賢治と種山ヶ原>賢治にかかわりのある人々
http://www.esashi.com/kakawari.html

1896(明治29)年生まれの賢治より10歳年下・1901(明治34)年生まれの露さんより5歳年下、賢治が下根子桜の別宅で独居自炊の生活を始めた1926(大正15)年4月時点で満19歳になります。

高橋が賢治のもとに出入りするようになった頃の彼の住まいは花巻・向小路。賢治や露さんの「ご近所さん」です。

上記プロフィールで個人的に気になるのは以下の3点です。

  • 「父は慶吾の将来を案じ…」
  • 「賢治は高橋の職を心配し…」
  • 「少年時からキリスト教信者だったが、賢治の影響により仏教を信仰」

高橋慶吾と露さんが知人となるきっかけはキリスト教でした。ですのでまずは「少年時からキリスト教信者だった」という点について見ていきます。

「彼」とキリスト教

高橋慶吾が「少年時からキリスト教信者だった」という記述。前項に引用した「えさし☆ルネッサンス」様だけでなく「校本宮沢賢治全集」をはじめとした数々の賢治研究関連書籍にも記されています。

少年時というとだいたい7歳頃から16歳頃を指すようです。高橋が7歳頃である年は1913(大正2)年〜1914(大正3)年、16歳頃である年は1922(大正11)年〜1923(大正12)年。

つまり、高橋は1913(大正2)年〜1923(大正12)年の間にキリスト教徒となった、ということになりますが…。

上田哲さんはこういった記述を以下のようにバッサリと切り捨てています。

『校本宮沢賢治全集』(第十三巻書簡)の「受信人索引(付・略歴)」の「高橋慶吾」の項に<少年時よりキリスト教信者だったが>と記載されているが誤りである。花巻のバプテスト教会の在籍名簿には会員としての記録はない。高橋は東京に一時行っていた時期があり、その時他のプロテスタント教派で受洗して、花巻には自分の所属教派の教会がない場合客員会員としてバプテスト教会に所属したことも考えられるので調べたが、その記録もない。

上田哲「「宮澤賢治伝」の再検証(二)ー<悪女>にされた高瀬露ー」 1996(平成8)年

「高橋は花巻ではなく稲瀬村の出身であり、少年時は稲瀬村周辺のキリスト教会で受洗したのではないか?」とも思われますが、それであるならその旨が名簿に記載されているはずです。でもそれもなかったようです。

上田さんは上記引用のあと花巻地方でのキリスト教伝道は挫折の繰り返しであり、1910年代後半に入るまで積極的な伝道は行われなかったこと、花巻でのキリスト教伝道に関して郷土史家がデタラメを伝えそれを一部の賢治研究書が引用していることなどを記していますが引用の範囲を超えてしまうためその部分は割愛し、花巻に再びキリスト教伝道が始まった部分から引用します。

浸礼教会(バプテスト)は盛岡をベースに岩手県北への伝道に力を入れていたが、一八九七年遠野の開拓伝道をはじめた。この遠野の夏期伝道で活動した佐藤卯右衛門神学生は牧師となって一九〇六年五月遠野に定住牧会した。
この新進気鋭の佐藤牧師は花巻地方のバプテスト教会の復活に意欲をもち一九〇八年頃から巡回伝道をはじめまた、この派の盛岡の教会(現在の教団の内丸教会)からの教職でない熱心な信徒の篤志伝道も断続的にあった。折からの<大正デモクラシー>の気運は保守的な花巻でも若い人々の間におよびキリスト教会の雰囲気に惹かれ集るようになって来た。高橋慶吾もそういう中の一人であったらしい。ただ花巻のバプテイスト教会が巡回教会から独立した教会として定着するのは一九三〇年ごろでその基礎作りをしたのは林文太郎牧師、阿部治三郎牧師である。高橋慶吾が出入りし、高瀬露が洗礼を受けたのは佐藤卯右衛門の巡回教会時代である。ただ日本社会の一般的な道徳観にくらべかなり厳しいキリスト教倫理を受け容れ、イエスを受肉せる神子キリストと福音的信仰告白をして受洗に至る者は少なかった。高橋慶吾も信仰には至らないで教会を離れていったのである。

上田哲「「宮澤賢治伝」の再検証(二)ー<悪女>にされた高瀬露ー」 1996(平成8)年

露さんが巡回教会で洗礼を受け信徒となったのは1921(大正10)年。当時の高橋は満14歳。おそらくキリスト教との関わりを持ったのは露さんが先で、高橋が巡回教会に出入りするようになったのは露さんが洗礼を受けてから数年後と考えられます。

ところで「えさし☆ルネッサンス」様掲載のプロフィールにある「賢治の影響により仏教を信仰」という部分は「謎の『文書』」カテゴリでまた取り上げるつもりですので、ご記憶いただければと思います。

「彼」の人となりなど

上田哲さんは高橋慶吾の知人から詳しい人物像を聞いており、それを記述しています。

高橋慶吾を戦前から知っている、第一次『イーハトーヴォ』以来の菊池曉輝主宰の「宮沢賢治の会」の会員で『農民芸術』その他に賢治についてのエッセイを寄せている鏑慎二郎は、「あの人は、新しいことが好きで理想主義者だが、足が地についていない感じもしました。」と語った。職業も転々としていたこともあって鏑だけでなく彼を知る人は余り信用していなかったようである。ある時期賢治の高弟を自称していて一部では反感も持たれていたという。

上田哲「「宮澤賢治伝」の再検証(二)ー<悪女>にされた高瀬露ー」 1996(平成8)年

「えさし☆ルネッサンス」様掲載のプロフィールにある「父は慶吾の将来を案じ」「賢治は高橋の職を心配し」という言葉に不穏な雰囲気を感じてしまいましたが、上記の証言より高橋は自己顕示欲が強い軽薄な人物ということが分かりました。

露さんとは全く正反対の性質の持ち主ゆえ、キリスト教の信仰に至らず教会を離れていったのも当然のことでしょう。教会に出入りしていた期間は結構短かったのではないかと思います。

次記事では高橋による「悪評の元ネタ」と「悪評の原因」を考えていきます。

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