「悪評」の元ネタ・その原因

当記事では「悪評」の元ネタとなった高橋慶吾の談話・および高瀬露さんの人物像をもう一度引用し「悪評が流されることになった原因」を考えていきたいと思います。

元ネタ「座談会「先生を語る」」

露さんの悪評の「元ネタ」となるのは、高橋と賢治の教え子2名が参加した座談会「先生を語る」での高橋の発言です。

この座談会は小倉豊文さんの「宮沢賢治「雨ニモマケズ手帳」研究」にて「賢治の没後二年頃=1935(昭和10)年頃の開催・速記録ではあるが専門の速記者による記録ではなく、またテープレコードの文字起こしでもない」と紹介されています。

「ライスカレー事件」があったのかどうかを考えた記事でも一部引用しましたが、当記事で改めて引用いたします。

K=高橋慶吾、M・C=賢治の教え子1

K この村の人達はただ道楽に仕事をやつてゐたと思つたらうな。

M さうだ。誰一人先生の生活に理解のある人はなかつたと思ふ。

K この次の集まりには、先生の生活上のことなどに就て話し合ひたい。それから前にも言つたがあの女の人のことで騒いだことがある。私の記憶だと、先生が寝ておられるうちに女が来る。何でも借りた本を朝早く返しに来るんだ。先生はあの人を来ないやうにするために随分御苦労をされた。門口に不在と書いた札をたてたり、顔に灰を塗って出た事もある。そして御自分を癩病だと云つてゐた。然しあの女の人はどうしても先生と一緒になりたいと云つてゐた。何時だったか、西の村の人達が二三人来た時、先生は二階にゐたし、女の人は台所で何かこそこそ働いてゐた。そしたら間もなくライスカレーをこしらへて二階に運んだ。その時先生は村の人達に具合悪がつて、この人は某村の小学校の先生ですと、紹介してゐた。余つぽど困って了つたのだらう。

C あの時のライスカレーは先生は食べなかったな。

K ところが女の人は先生にぜひ召上がれといふし、先生は、私は食べる資格はありませんから、私にかまはずあなた方がたべて下さい、と決して御自身たべないものだから女の人は随分失望した様子だつた。そして女は遂に怒つて下へ降りてオルガンをブーブー鳴らした。そしたら先生はこの辺の人は昼間は働いてゐるのだからオルガンは止めてくれと云つたが、止めなかつた。その時は先生も怒つて側にゐる私たちは困つた。そんなやうなことがあつて後、先生は、あの女を不純な人間だと云つてゐた。

C 何時だつたか先生のところへ行つた時、女が一人ゐたので「先生はをられるか」と聞いたら「ゐない」と云つたので帰らうと思つて出て来たら、襖をあけて先生がでて来られた時は驚いた。女が来たのでかくれてゐたのだらう。

K あの女は最初私のところに来て先生に紹介してくれといふので私が先生へ連れて行つたのだ。最初のうちは先生も確固(しっかり)した人だと賞めてゐたが、そのうちに女が私にかくれて一人先生を尋ねたり、しつこく先生にからまつてゆくので先生も弱つて了つたのだらう。然し女も可哀想なところもあるな。

座談会「先生を語る」 収録:関徳弥「宮沢賢治素描」1943(昭和18)年

後数十年に渡って語られる「露さんの悪評」の基本が大部分ここに詰まっています。ここにないのは「想いが叶わなかった露さんは賢治を恨み、賢治を中傷して歩いた」という話だけです。

一読してすぐに分かるのは以下の点です。

  • 高橋は何の脈絡もなく「女の人」=露さんの話題を出してきている
  • しかもその話題を積極的に話しているのは高橋ひとりである

個人的主観ですが、高橋は露さんの「愚行」を得意げに語っているように見受けられ「この人、露さんに私怨でも抱いているんじゃないの」と感じてしまいました。

「座談会」を読み込んでいくと分かること

さらにこの座談会を読み返すと、特に「露さんの頻繁な訪問と賢治の対応」に関して色々見えてきます。

まず、以下に挙げる高橋の「証言」の数々。

  • 先生が寝ておられるうちに女が来る。何でも借りた本を朝早く返しに来るんだ。先生はあの人を来ないやうにするために随分御苦労をされた。門口に不在と書いた札をたてたり、顔に灰を塗って出た事もある。そして御自分を癩病だと云つてゐた。然しあの女の人はどうしても先生と一緒になりたいと云つてゐた
  • 「(ライスカレー事件後)先生は、あの女を不純な人間だと云つてゐた
  • あの女は最初私のところに来て先生に紹介してくれといふので私が先生へ連れて行つたのだ

これら全て「高橋のみが見聞き」したことで、賢治や露さんが本当にそんなことをしたのか・言ったのかの証拠にはなりません。

「先生の高弟たる自分だけが知る事実」とばかりに自慢気に語る高橋と、その様子に困惑しているCさんMさんの姿を思い浮かべてしまいます。

次にCさんは「賢治を訪ねた際そこにいた女性(露さん)に賢治の不在を告げられ帰ろうとしたら隠れていた賢治が飛び出してきた」話のみをしています。賢治が居留守を使っていたらしいのを見たのはこの時だけだった事も分かります。「女が来たのでかくれてゐたのだらう」という言葉は先に高橋が述べた「賢治と露さんのゴタゴタ」を聞いて推測しただけなのでしょう。

また、カテゴリ「「頻繁な訪問」伝説」で度々引用してきた森荘已池文献・儀府成一文献にある「ぶっきらぼうな態度の露さん」はCさんの言葉からは見られません。「「先生はおられますか」と訊いたら「おられないみたいですね」と答えてきた」という事実だけです。

実際露さんは急な賢治の不在に困惑し、それをCさんへの返答に見せてしまったのかもしれませんが、困惑するのは至極当然で責められることではありません。そしてCさんはその場にいない人を悪く言うことにならないようシンプルな表現をしたのだと考えられます。

本当のところ、露さんは羅須地人協会員たちにそこまで「異常な存在」扱いはされていなかったのではないかと思えてきます。

原因「露さんと高橋の性格のせい?」

今日まで伝えられている「露さんの悪評」は、上記高橋の「証言」を関徳弥・森荘已池・儀府成一が拾い上げ、尾ひれをつけて広めていったということになります。

どうして高橋は「露さんの陰口」を話すことになったのでしょうか。

座談会を一読した際に「高橋は露さんに私怨でも抱いているのでは」と感じましたが、案外これが真実なのかもしれません。その理由は高橋の性格と露さんの性格にあると思いました。

まず高橋の性格は「軽薄・自己顕示欲が強い」で、露さんの性格は「優しく真面目で控えめ・相手を立てる」です。全くの正反対で、相性の合わない間柄と言えるでしょう。

周囲の評価が高い露さんですが、全く欠点がないとも言えません。「彼女の「実際の姿」(1)」で引用した遠野市在住の歌人KEさんの証言に「露さんの欠点」と言えるものがあります。当記事に改めて引用します。

(略)ただ、後輩や若い人には、先輩としての義務観から忠告や注意をして誤解されるようなこともあったようだ。」

上田哲「「宮澤賢治伝」の再検証(二)—<悪女>にされた高瀬露—」1996(平成8)年

忠告や注意の程度がどのくらいであったのかは分かりません。また相手によってはちょっとした忠告や注意でも「お節介」「こちらを見下している」などと悪く取られてしまうこともあったりします。

露さんと高橋は住まいが近所同士で顔見知り・花巻バプテスト教会に出入りしていたという繋がりがあります。そして露さんは高橋より5歳年上・教会の出入りは恐らく高橋より先。露さんは信徒として「教会に興味を持って出入りしている近所の男の子」である高橋を人生の先輩としてある程度気にかけていたと思われます。

そして高橋は、露さんに対しては女性ということで多少見下した思いを、「女性でありながら小学校教員として真面目に働いている」というところにコンプレックスを抱いていたのではないでしょうか。

これらを踏まえて考えた、高橋が露さんの「愚行」を言いふらすことになった原因を以下に記します。なお「高橋が露さんを賢治に紹介した」という話は先述したように懐疑的な部分がありますので除外します。

露さんが賢治の元に出入りするようになった頃と同じ時期に、高橋は花巻バプテスト教会から足が遠のくようになった。
それを気にかけた露さんは高橋に「最近教会に来られませんが…」と声を掛けた。
その理由を簡単に述べた高橋。
露さんはそれに対し「お気持ちは分かりますが何事も続けることが大事ですよ。お仕事の方も…お父様もご心配されておりましたし」と言った。
その言葉にカチンときた高橋、露さんに「年上とはいえ女のくせに偉そうに」と悪感情を抱くようになった。
賢治没後、羅須地人協会員たちとの座談会に参加した高橋、「先生の高弟としてこの座談会を盛り上げなくては。では俺に対して偉そうなことを言ってきたあの女のことをちょっと大げさに話してやるか」と軽く考え、あることないことを話してしまった。

以上、完全に私の想像で事実ではありません。

高橋は最後に「然し女も可哀想なところもあるな」と取ってつけたようなフォローの言葉を述べています。露さんに対する罪悪感が出てきてしまったのか、これだけ話してもCさんやMさんがほとんど話に乗ってこなかった気恥ずかしさをごまかしたのか…と色々想像してしまいます。

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  1. M・C両氏とも資料では本名が明かされていますが、当ブログではイニシャル表記のままとさせていただきます ↩︎
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