「内容」・他の目撃者・もしかして…

「中傷行為」伝説に対して起こる疑問について引き続き考えていきたいと思います。

当記事で考える疑問は以下の2点です。

  • 「中傷」の内容は具体的に何だったのか
  • 「高瀬露さんが宮沢賢治を中傷している」のを見た人は他にいるのか

最後に「真実はこうだったのでは」ということを考えてまいります。

「中傷」の内容は何だったのか

ちゅう‐しょう〔‐シヤウ〕【中傷】

読み方:ちゅうしょう

[名](スル)根拠のないことを言いふらして、他人の名誉を傷つけること。「ライバルを—して蹴(け)落とす」「—記事」

Weblio辞書 デジタル大辞泉 https://www.weblio.jp/content/%E4%B8%AD%E5%82%B7

儀府成一は「宮沢賢治 ●その愛と性」>「やさしい悪魔」の中で以下のように書いています。

あの”運命のカレーライス”事件を境にして、二人の間は画然と割れたあと、
賢治に対するいろんないやがらせをしたというが、どのようなものだったのだろうか。「像に釘うつ」と賢治が書いているのをみても、非情に情熱的だったと云われる人柄からおして、かなり思い切ったことをしたのではないかとも思われる。

儀府成一「宮沢賢治 ●その愛と性」>「やさしい悪魔」 芸術生活社 1972(昭和47)年

「中傷して歩いた(いやがらせをした)」という行動は伝わっていても「具体的に何をしたのか」ということまでは伝わっていないのです。

他の「露さんの愚行」は結構具体的に伝えられているのに「中傷行為」はこの一言だけ。何だか不気味な印象を抱いてしまいます。

ある読者
ある読者

儀府成一も「かなり思い切ったことをしたのではないかとも思われる」と言っているように、簡潔に表現するのも憚られるほどエグいことを言ったんじゃないの?

とにかく「女性が関わりのあった男性を中傷する」際に言う内容を、私が考えつく範囲で上げていきたいと思います。

⚠️筆者の想像です。高瀬露さんが実際に話したものではありません⚠️
・賢治に結婚を仄めかされ、金銭を騙し取られた
・賢治に夜遅くまで拘束され、貞操をそこないかけた(そこなった)
・賢治は反社会的な団体や人物と関わりを持っている
・賢治は既婚女性とよからぬ関係にある
⚠️筆者の想像です。高瀬露さんが実際に話したものではありません⚠️

中傷の内容としてはありきたりですが、放っておくべきものでもありません。

本当にこんなことを言いふらされたらすぐ周囲に釈明に回ったり露さんに抗議をするなどの行動に出るものではないでしょうか。約4年間何も対応せず親族だけに了解を求めに行ったという賢治および宮沢家の行動がますます不自然に見えてしまいます。

放置しておける程度の内容であるならそれは「ただの愚痴」というべきものであり、わざわざ文献に書き立て数十年にわたって言い伝えるほどのものでもなくなってしまいます。

他の目撃者の存在は?

宮沢賢治を、じぶんの愛情のとりこにしようとして、ついに果たさなかった女人は、いろいろ賢治について悪口をいってまわったものらしかった。

森荘已池「宮沢賢治と三人の女性」 1949(昭和24)年

恋に破れた逆恨みから、あることないこと賢治の悪口をいいふらして歩くという、最悪の状態に陥ったのだと考えられる。

儀府成一「宮沢賢治 ●その愛と性」>「火の島の組詩」 芸術生活社 1972(昭和47)年

森荘已池・儀府成一両氏とも「露さんが不特定多数の人々に賢治の悪口を言いふらした」かのように書いています。

それなら「露さんが賢治の悪口を言っているのを聞いたことがある」という人がもっと出てきても良さそうなものですが…

二人の手紙の往復は賢治の発病後も継続しており、クリスチャンの高瀬女史(原文表記:T女史)は法華経信者となって賢治との交際を深めようとしたり、持ち込まれた縁談を賢治に相談することによって賢治への執心をほのめかしたりしたが、賢治の拒否の態度は依然変わらなかったらしい。その結果高瀬女史は賢治の悪口を言うようになったのであろう。この点、高橋(引用者注:高橋慶吾)は否定していたが、私は関登久也夫人(賢治の妹シゲの夫岩田豊蔵の実妹ナヲ)から直接きいており、賢治が珍しくもこの件について釈明に来たことも関から直接きいている。

小倉豊文「宮沢賢治「雨ニモマケズ手帳」研究」 筑摩書房 1996(平成8)年

引用文冒頭の「二人の手紙の往復」とは賢治が1929(昭和4)年に書き残した「書簡下書き・下書き断片」で、根拠示さずに「高瀬露宛て」としているものを指しています。この部分、本来は省略したかったのですが、文脈が乱れてしまうため不本意ながら引用しました。

「書簡下書き・下書き断片」については後日「謎の『文書』」カテゴリで取り上げますので、「二人の手紙の往復」に関して今は脇に置いてください。

本題に戻ります。
上記引用文にある通り関夫人である岩田ナヲさんは賢治の従姉妹・義妹にあたり、その夫である関徳弥(岩田家の婿養子)も賢治の義弟・義理従兄弟という立場、両者とも「賢治の身内」ということになります。ちなみに関徳弥夫人のナヲさんと露さんは花巻高等女学校の同級生であったとのことです。

小倉さんの文章からは「賢治の身内が話しているのだから確実だ」という雰囲気が漂ってきますが、「賢治と露さんの間に起こったことを知っている賢治の身内」の証言は偏りがちになってしまいます。

「出来事の存在の確実性」を高めるためには「賢治と露さんに起こったことを知らない全くの第三者」の証言も必要だし、普通ならそういった人々の証言も集めるはずですが、「露さんが言いふらす悪口」を聞く可能性が高いはずの岩田家の周辺に住んでいる人々・露さんの実家のある向小路に住んでいる人々・露さんの勤務先周辺の人々の証言は一切なく、また調査もされていません。

「賢治の悪口を言っていた」と証言しているのは岩田ナヲさんだけ、小倉豊文さんが「直接きいている」のも関徳弥・岩田ナヲ夫妻だけ。

そして「露さんの頻繁な訪問」や「ライスカレー事件」の情報源である高橋慶吾が「露さんの中傷行為」を否定していたのです。

これはどういうことなのでしょう。

推理もどき「『中傷行為』伝説の真実」

まずは関連人物の関係性を整理します(敬称略)。

関徳弥:岩田ナヲの夫・岩田家の婿養子・宮沢賢治の義理従兄弟かつ義弟
岩田ナヲ:関徳弥の妻・宮沢賢治の従姉妹かつ義妹・高瀬露とは女学校の同級生

関夫妻が賢治の義弟妹になる理由:賢治の妹シゲの夫・岩田豊蔵がナヲの実兄
岩田ナヲが賢治の従姉妹になる理由:ナヲの実母・岩田ヤスは賢治の父・宮沢政次郎の妹

高瀬露と岩田ナヲ:花巻高等女学校の同級生
露とナヲの親密度:不詳。だが露は賢治とナヲの続柄を既に知っていると思われる

では次に「前提とする状況」を考えてみます。

宮沢賢治は下根子桜別宅での活動・高瀬露さんのことを時々関徳弥に話していた。
露さんは賢治との交流に関することを、愚痴的なものも含め時々岩田ナヲさんに話していた。
ナヲさんは露さんから賢治の話を聞いたことを、夫の関に軽く報告していた。
関はナヲさんや賢治から聞く話で、露さんに良くない感情を抱いていた。

ここまでのことを踏まえて、「『中傷行為』伝説の真実」を考えると以下のようになりました。

高瀬露さんが宮沢賢治とのことを第三者に話したのは事実ではあるが、その「第三者」は岩田ナヲさんだけだった。
時にはネガティブなことを話すこともあったが、その内容は「中傷」というほど強いものではなく「ちょっとした愚痴」で片付けられるような他愛のないものであり、ナヲさんもそこまで気にしておらず、軽い気持ちで夫である関徳弥に報告していた。しかし関はその話だけで露さんに良くない感情を抱くようになった。
1927(昭和2)年夏、露さんは賢治宅の訪問をやめることにし、その旨と経緯をナヲさんに話した。ナヲさんはいつものようにそのことを関に報告する。関はナヲさんの話の内容を「露さんが賢治を中傷した」と受け取った。
1932(昭和7)年秋、賢治は関を訪ね「僕のことについて変なことを言っている人がいるが誤解しないで欲しい」と言った。そのことで関は「露さんが賢治を中傷した」という考えを固めてしまい、後年自著に(露さんの名前は伏せておきながらも)そのことを書き残してしまう。
さらに後年、小倉豊文さんの質問を受けたナヲさんはこう答えた。
「ええ確かに、露子さんは賢さんのことを私に度々話しておりました。時にはあまり良くないことを言うこともありましたね」

以上完全に私の想像ですが、「大騒ぎされていることの真実は案外他愛のないことだった」というのはよくあることです。

かつて「考える材料」にしていた文献に関して

ところでgooブログ版運営時、2003(平成15)年7月28日に北上市の古書店で見つかった関徳弥の1930(昭和5)年用の日記「10月4日と6日に露さんが関の婚家である岩田家を訪ねた」旨の記述が「中傷行為」伝説の鍵を握っているのではないかと考え、色々と述べました。

しかし後年「この日記は昭和5年用のものを翌年の1931(昭和6)年に使用している可能性が高い」という指摘1を拝見し、曖昧な部分がある関の日記を「中傷行為伝説を考える材料」とすべきではないと判断しました。

関の日記自体に関してはまた後日別カテゴリで述べようと思っています。

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  1. 参考:「みちのくの山野草」様>「『昭和五年 短歌日記』は昭和6年用に使われた↩︎
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