「中傷行為」伝説と彼女に思うこと

「中傷行為」伝説のまとめとなります。

当記事では「中傷行為」伝説や高瀬露さんの「対応」に対しての個人的意見を述べていきたいと思います。

個人的意見「中傷行為の有無」

「露さんが宮沢賢治の中傷をして歩いた」という行為が有ったのか無かったのか。

私は「無かった」と思います。その理由は以下の3点です。

  1. 中傷行為の証言が乏しい
  2. 周囲の人々からの露さんの評判
  3. 露さんの後年の賢治に関する行動

1に関しては前記事で色々と述べましたがこちらでももう一度書きます。
露さんが不特定多数の人に賢治の悪口を言いふらして回ったというなら「その話を聞いたことがある」「実際に彼女から悪口を聞かされた」と言う人が現れるはずです。現在こそSNSを使って「顔も名前も隠して1相手の誹謗中傷をする」ことができますが、SNSもインターネットもない当時は「顔も名前も晒して相手の誹謗中傷をする」ことになりますから。
しかし、実際そういったことを言っているのは関徳弥夫妻だけ。これでは証拠になりません。逆に関夫妻が露さんを中傷していることになってしまいます。

2に関して。周囲の人々からの露さんの評判は「彼女の「実際の姿」(1)」「彼女の「実際の姿」(2)」に記しています。
それらを見てみると「自分の思い通りにならなかった相手の悪口を言いふらして回るような人間が得られるものではない」ことが分かります。証言者は複数(おそらく数十人)おられるので信頼できる情報であることも分かります。
「その姿は上辺だけのものなのではないか?」と思われた方は「「流布された姿」と「実際の姿」を比較する」をお読みください。

3に関して。露さんは後年賢治を偲ぶ短歌を数首発表したり、賢治を偲ぶ集いを自ら開催したりしています。賢治との交流を話す際には聞き手の印象に残るほどの「賢治に対する敬愛の念」を表情や言葉に表してもいます。
露さんが詠んだ「賢治を偲ぶ短歌」はまた後日取り上げますが、個人的には「どの歌も賢治への敬愛がものすごく伝わってくる」と感じています。
誹謗中傷というものは「かなりの憎悪を抱いた相手」に対してするものです。相当な年数が経過していたとしても、そこまでの(和解もできていない)相手を「偲ぶ」など出来ないと思います。

「聖女のさましてちかづけるもの」は証拠になる?

ある読者
ある読者

けどさ…「聖女のさましてちかづけるもの」っていう詩があるでしょ。

「聖女のふりをして近づいてきた人物にすごく失礼なことをされた」って賢治がガチギレしてるような内容だけど、これは「露さんが賢治に失礼なことをした事実」があるからこそ書かれたものじゃないの?

特に悪評系が「これが動かぬ証拠だ!」と言いたげに出してくる「聖女のさましてちかづけるもの」という文章。詩というよりは殴り書きのようなものと個人的に思っていますが、一応以下に引用します。

聖女のさましてちかづけるもの たくらみすべてならずとて
いまわが像に釘うつとも 乞ひて弟子の礼とれる
いま名の故に足をもて われに土をば送るとも
わがとり来しは たゞひとすじのみちなれや

宮沢賢治 「雨ニモマケズ」手帳 1931(昭和6)年10月24日頃

まず冷静に考えていただきたいのですが、この文章が露さんのことを書いているという証明はどこにあるのでしょう。

「聖女=キリスト教徒の女性=(当時)プロテスタントの信徒である露さん」と読むのはちょっと短絡的ではありませんか?

賢治と関わりがあった女性は露さんだけとは限らないし、賢治と関わりがあったキリスト教徒の女性も露さんだけとは限らないのです。

仮にこれが「露さんが自分を中傷して歩いていることに立腹して書いたもの」であるとしたら、色々と不自然な点が出てきてしまいます。

まず「露さんの中傷行為」がいつあったのかが曖昧なのですが、ひとまず「いつ起こったのか・当時の彼女」で推理した「1928(昭和3)年6月中旬頃から数週間程度」としておきましょう。そして「聖女のさまして…」が記されたのは1931(昭和6)年10月24日ごろ2。この間賢治もその家族・親族も「露さんの中傷行為」に対して何の対応もしていません。

「中傷行為をやめさせるために露さんと向き合って話し合いを重ねたが、解決までかなり揉めることになった」という経緯でもあるなら「その時を思い出してムカムカした気分が起こり、それを手帳に書きつけた」のも良く分かります。

しかし「何の対応もせず放ったらかしにしておいた」のであるなら、数年経ってあのような強い調子の文章を書きつける賢治は「かなり陰湿な人物」ということになってしまいます。

むしろ「露さんは何もしていない」からこそ「賢治もその家族・親族も露さんに対する行動を取らなかった」のではないでしょうか。

ちなみに、この「聖女のさまして…」、露さんとは別の「キリスト教に関係する女性」のことを書いている可能性が高いとのことです。

個人的意見「彼女の対応に関して色々考える」

「中傷行為」伝説をはじめとする数々の悪評に対して露さんはどんな応じ方をしたか、大変失礼なことは承知の上でそれに対する考えを述べたいと思います。

露さんは、様々な「ひどい噂」を広範囲に広められてしまったというのに、ただ「事実でないことが語り継がれている」と言ったのみでそれ以上の弁明をしませんでした。

賢治も「自分を中傷しているらしい者がいる」と聞けば関係者(関徳弥)に「誤解のないよう了解を求めに行く」という行動を取ったように、どんなに度量のある人でも身に覚えのない「悪評」を流されれば弁明のひとつでもしたくなるのが普通です。

これについて、上田哲さんは以下のような推察をしています。

これは彼女がキリスト者であったことによるのかもしれない。肉体的苦痛はもちろん、貧窮、迫害、誹謗などを自分の十字架としてにない、キリストの十字架の御苦に合わせ献げるため甘受するといった考え方が昔の信者にはあった。また、どうしてこのようなうわさを流布されるようになったかを話せば傷つく人のあることも考えていたようである。

上田哲「図説 宮沢賢治」>94ページ「賢治をめぐる女性たちー高瀬露を中心に」 河出書房新社 1996(平成8)年

周囲の人々の「露さん評」には以下のようなものがあります。
(カッコ内は証言者・「彼女の「実際の姿」(1)」より)

自分を律するのに厳しい(遠野市在住の歌人・KEさん)
他人の悪口や批判を決して口にしない(同上)
(相手と)意見が違っても逆わない(青笹小学校時代の同僚・KSさん)

自分の名誉を守るためには「悪評系の面々と争う」ことになるのは必然、場合によっては泥沼化し自分も相手も傷ついてしまう展開になることも考えられます。

未熟者の私は「先に人の悪評を流した者が傷つこうが知ったことではない、私の名誉を傷つけた者には相応の報いを受けてもらう」と考えてしまいますが、露さんの考えはその真逆だったということなのでしょう。

また自分を信頼し慕ってくれる人々が周りにたくさんおり、「自分は何も疚しいことはしていないし、根も葉もない話はいずれ消える」と鷹揚に考えていたのかもしれません。

実際どう考えていたのかは露さんご本人に聞かないと分からないですが、いずれにしても彼女は何の弁明もしなかったことで「懐の深さ」を表しました。それに敬意を表します。

gooブログ版では「露さんに対する意見」を偉そうに述べてしまいましたが、ほんの一時でも「露さんの悪評」を信じていた私に「露さんに意見」などする資格はありません。

はっきり言える事実は「露さんは賢治を手伝っていた」ただそれだけ。
彼女がその思いを邪推されたり、存在を貶められたりする筋合いはどこにもない。

露さんに対するお詫びと言ってはなんですが、ずっとこのことを訴え続けていきたいと改めて思います。

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  1. 実際は「住所や名前を特定できる情報を見えない場所に提示している」ので「顔も名前も隠して」という表現は正確ではありませんが、表向きはそう見えるので敢えてこういう表現をいたしました ↩︎
  2. その約10日後の11月3日、同じ手帳に「雨ニモマケズ」で始まる有名な文が記されています。 ↩︎
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