森荘已池文献・和服姿の女性

まずは森荘已池の文献から取り上げていきます。

当記事で取り上げる文献は以下の2点。
1.宮沢賢治と三人の女性
2.高雅な和服姿の”愛人”

1は1974(昭和49)年・津軽書房出版の「宮沢賢治の肖像」に収録されており、初出は1949(昭和24)年です。
2は1988(昭和63)年・熊谷出版印刷部出版の「ふれあいの人々 宮沢賢治」に収録されており、初出は1980(昭和55)年、朝日新聞岩手版での連載エッセイです。

当記事で見ていく点は「森荘已池が高瀬露さんらしき女性とすれ違った」というエピソード。

「宮沢賢治と三人の女性」では…

「宮沢賢治と三人の女性」では一連のエピソードが以下の時系列で記されています。

宮沢賢治、大正15年春に花巻農学校を退職後花巻町下根子の別宅に独居・農耕自炊の生活を始め、その年の8月に「羅須地人協会」設立
↓
その後、とある協会員の紹介で「花巻の西方の村で小学校教員をしている女性」が賢治のもとに出入りするようになる
↓
賢治も当初は身の回りの片付けをしてくれる女性を歓迎していたが、次第に女性が賢治への思いを募らせ行動もエスカレートしていくのを見て困惑し始める
↓
やがて賢治は女性を避けるために様々な行動を取るようになる

ここまでの出来事の後、森荘已池は賢治を訪ねます。以下に該当部分を引用します。

宮沢賢治が、花巻農学校教諭を依願退職して、花巻町下根子の宮沢家の別荘を改築し、そこに農耕自炊の生活をはじめたのは大正十五年春であるが、その年八月には「羅須地人協会」を設立した。発表式は田舎では誰もが仕事を休む旧盆の十六日であった。

(中略・女性教員の登場から賢治の忌避行動まで)

一九二八年の秋の日、私は下根子を訪ねたのであった。

(中略)

ふと向こうから人のくる気配だった。私がそれと気づいたときは、そのひとは、もはや三四間1向うにきていた。
(湿った道と、そのひとのはいているフェルトの草履が音をたてなかったのだ。)
私は目を真直ぐにあげて、そのひとを見た。
二十二三才の女の人で和服だった。派手ではなかったが、上品な柄の着物だった。

(中略)

畑のそばのみちを通り過ぎ、前方に家が見えてきた。二階に音がした。しきりにガラス窓をあけている賢治を見た。彼は私に気がつくとニコニコッと笑った。明るいいつもの顔だった。私たちは縁側に座を占めた。彼はじっと私の心の底をのぞきこむようにして
「いま、とちゅうで会ったでしょう?」
といきなりきいた。
「ハァー」
と私が答え、あとは何もいわなかった。少しの沈黙があった——。
「おんな臭くていかんですよ。」
彼はそういうと、すっぱいように笑った。

森荘已池「宮沢賢治と三人の女性」1949(昭和24)年

この文献では分かりやすくはっきりと書かれていますね。
森荘已池が賢治を訪ねたのは1928年の秋の日とのこと。
1928年=昭和3年、この点をご記憶ください。

「高雅な和服姿の”愛人”」では…

「高雅な和服姿の”愛人”」はざっくり書くと、

「羅須地人協会設立の年の秋に賢治を訪問、その途上で外見も雰囲気も目を引く女性とすれ違う。彼女は後年『賢治と特別な関係にある』と言いふらしていたらしい」

といった感じの内容です。いわゆる「”愛人”」にかかる部分も気になるのですが、それは次の記事で触れることにし、ひとまずこの文献での森荘已池が女性とすれ違った場面を引用します。

それは、紅葉がほんとうに美しい、この秋一番という好天の日だった。何軒か、老杉と紅葉する大樹の混こう林の中に、大きな農家が何軒かあった。

羅須地人協会が旧盆に開かれたその年の秋の一日であった。
そこへ行くみちで、私はひとりの若い美しい女の人に会った。その人は、そのころからはやり出した、もみじ色の、はでではあるが高雅な気分のある和服姿であった。
その着物と同じように、ぱっと上気した顔いろに、私はびっくりした。少し前まで興奮した「時間」があったのだなと私は思った。

大正十四年夏、この協会ができた時、お訪ねしたいと手紙を出すと、今はとても忙しいから、秋においでなさいと返事があった。駄(だ)客、閑客の類だから、ヒマになったらおいで、ということだと、素直に受け取った。

きょうが初めての未知の家への途上で、ばったりと、この女人に会ったのである。

(中略)

二階建てのりっぱな別荘が、向こうに現れ、二階に動く人影があった。近づくと、声が降ってきて、主は賢治その人だった。前のように白くはなくて、小麦色になった笑顔だった。
二階のガラス戸を、しきりに音させてあけている。

二階と下とで「女の人と、いま会ったんでしょう」「ハア、すぐそこで」「女くさくていかんのです。川風に吹きはらわせています」などと、会話した。

(後略)

森荘已池「ふれあいの人々 宮沢賢治」>17ページ「高雅な和服姿の”愛人”」1980(昭和55)年

肝心の部分をバラバラに記し、読者を混乱させるつもりなのではないかと邪推してしまいます。それはともかくこの文献によると森荘已池が賢治を訪ねたのは羅須地人協会が開かれた年の秋で「大正十四年夏、この協会ができた時」つまりその直前には訪問したい旨の手紙を賢治に送り、秋に来てくれという返事を受け取っているとのこと。

大正14年=1925年ですね。……ん?

二転三転している「時期」

 ここでもう一度、両文献から「森荘已池が賢治を訪ねた」時期の記述を抜き出します。

●宮沢賢治と三人の女性
一九二八年の秋の日、私は下根子を訪ねたのであった」

●高雅な和服姿の”愛人”
羅須地人協会が旧盆に開かれたその年の秋の一日であった。そこへ行くみちで…」
「大正十四年夏、この協会ができた時、お訪ねしたいと手紙を出すと、今はとても忙しいから、秋においでなさいと返事があった」

片や「1928(昭和3)年」片や「1925(大正14)年」。3年もの誤差があります。

まず「宮沢賢治と三人の女性」で述べられている「一九二八年の秋の日」
当サイトの「整理のための年表」>1928年の項をご覧ください。

事実として、賢治はこの年の8月10日に両側肺浸潤と診断され自宅に戻り臥床しています。その療養期間がどのくらいであるかは分かりませんが、少なくとも1ヶ月間は体調が芳しくなかったようです。その後調子は少し戻ったり悪くなったりの繰り返しで、下根子の別宅に足を運ぶことはあっても他人と会って話をするという状態ではなかったようです。

肺浸潤は古くは結核の初期症状とされていたということで、とても他人に会うどころじゃありませんね。約束があったとしても断りの連絡をするはずです。

しかし「宮沢賢治と三人の女性」では、着物姿の女性とすれ違ったあと宮沢家別宅に到着し、しかも元気な様子の賢治と会い「縁側に座を占め」て(隣り合って)普通に会話をしています。2

次に「高雅な和服の”愛人”」で述べられている「羅須地人協会が旧盆に開かれたその年の秋の一日」「大正十四年夏、この協会ができた時」

つまり羅須地人協会は大正14年夏に出来て、その年の秋に賢治を訪ねたということになりますが…「整理のための年表」>大正14年の項を見てみると「はい、ダウト!」

羅須地人協会の活動が始まったのは1926(大正15)年の8月です。つまり1年誤った数字を記載しているというわけです。

片や「賢治は病気で実家療養していた時期」片や「羅須地人協会など影も形もなかった時期」ということになります。

公に向けて書いた文章ですよ

ここまでの記述に対し、こう思われた方もいると思います。

ある読者
ある読者

森荘已池は記憶違いをしていたんじゃないの?
1〜2年程度の違いをいちいちつつくなんて大人げないよ?

「家族友人にする思い出話」であれば1〜2年程度の誤差などつつくほどでもないですが、これらは「賢治と交流があった」という肩書きを持った人物が「公に向けて書いた・人々からお金をもらって読ませる文章」です。

羅須地人協会設立がいつであったかの記憶が曖昧であったなら、関係者に確認を取る・自分が過去に書いた文章を見直してみるなどいくらでも方法はあったはずです。協会設立は賢治の人生において「大イベント」の1つであるはず、公に向けた賢治の思い出話で絶対に間違えてはいけないことではないでしょうか?

これでは(失礼な言い方になりますが)森荘已池は両文献とも「あまり責任感を持たずに書いた」のではないかと感じてしまいます。

ここで重大な「事実」が…

「羅須地人協会の活動が始まった後の秋に下根子で暮らす賢治を訪ねた」として適切な年は1926(大正15)年もしくは1927(昭和2)年なのですが…。

この頃の森荘已池の動向に関してブログ「ちのくの山野草」様の記事「森の「下根子桜訪問」はどうやら捏造のよう」に重大な「事実」が記載されています。

記事によると、森は羅須地人協会設立の1926(大正15)年8月当時は東京外国語学校の学生として東京に在住、同年11月25日頃に重病を患い岩手に帰郷療養、翌年の1927(昭和2)年3月に盛岡病院に入院、病気が癒えたのはさらに翌年の1928(昭和3)年6月のことだったとか。この年の秋にはすでに羅須地人協会の活動は途絶えてしまっています。

つまり「羅須地人協会活動中の秋に森が下根子で暮らす賢治を訪ねることは出来なかった」ということです。

こうなると、森は両文献とも「あまり責任感を持たずに書いた」のではなく「分かっていてやった」ということになります。

その理由を考えると背筋が寒くなる気分になります。そして、森は「うっかり」よりも遙かに重たいものを背負ってしまったな…と思いました。

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  1. 約5.4〜7.2メートル(1間=約1.8メートル) ↩︎
  2. 「高雅な和服姿の”愛人”」では「二階と下とで」賢治と言葉を交わした記述になっていますが、こちらの記憶違いは許容範囲と考え言及いたしません。 ↩︎
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