彼女の半生

高瀬露さんの半生を、上田哲さんの論文「「宮澤賢治伝」の再検証(二)ー<悪女>にされた高瀬露ー」から引用しつつ思うことを述べていきたいと思います。

嫁ぎ先は神職の家

一九三二年<昭和七年>四月十一日、岩手県上閉伊郡遠野町(以下住所引用者により省略)の小笠原牧夫と結婚し遠野へ移住した。花巻では教会の活動的信者であった彼女は一応遠野のバプテイスト教会へ転籍した。一応というのは、外語学校を出た英語の先生という仲人の話で結婚したところ(引用者注・小笠原牧夫さんは) ある時期英語の講師をしたことがあったらしいが、その時は鍋倉神社の神職であったのである。親は知っていたかも知れないが、本人は全く聞いていなかったのである。
(中略)
夫となった小笠原牧夫は、一八九三年(明治二十六年九月九日)生まれで露より八歳年上の三十九歳。露も三十一歳。今更、逃げて帰るわけにもいかず彼女は悩んだという。

上田哲「「宮澤賢治伝」の再検証(二)—<悪女>にされた高瀬露—」1996(平成8)年

「鍋倉神社」は現在の「南部神社」で、遠野南部家の初代から八代目までをお祀りしている神社とのことです。

お嫁入り先は「異教」である神道、そして実家から遠く離れた場所。露さんはまず「信仰を棄てるか否か」という選択肢を頭に浮かべたことでしょう。

結婚生活は深い悩みを抱えながら始まったというわけですね。

周囲から睨まれる

幸い牧夫はやさしい性格で外語学校で英語を学んだだけあってある程度の理解をもっていたようである。それで折々教会へ行くことも出来たが、周囲の圧力の方が強かった。「神社へ嫁に来たのにヤソなどに行く。」と彼女への批難や妨害のいやがらせに耐えながら教会との連絡は保っていたが、次第に教会への足は遠退かざるを得ない状況に追いつめられていった。しかし彼女はキリスト教の信仰を棄てたのではない。それであるから教会を遠退いていることに対して負い目を抱きながら生活していた。

上田哲「「宮澤賢治伝」の再検証(二)—<悪女>にされた高瀬露—」1996(平成8)年

よく「日本人は八百万の神の精神を持っているから外国から来た宗教もそれを信じている者も受け入れる懐の深さがある」なんて話を聞きますが、それもやはり場合によるのですね。

この時点で周囲の人々にとって露さんは「余所から来たばかりのよく分からない人物」ですから、神職の家へお嫁入りした身でキリスト教の教会に行くという行動を(たとえ遠野の上流階級に属する小笠原家の家人が良いと言っても)快く思わない人は多かったかもしれません。

露さんは教会から足が遠退いていることだけでなく、キリスト教に理解を示してくれている夫に対しても負い目を抱いていたのではないでしょうか。きっと度々「信仰を棄てるか否か」で揺れ続けていたことと思います。

夫との死別

そして一九四五年敗戦を迎えた年の十二月十九日夫の牧夫が死去した。夫の死で彼女も次第に神社との縁が薄くなっていった。

上田哲「「宮澤賢治伝」の再検証(二)—<悪女>にされた高瀬露—」1996(平成8)年

露さんは1944(昭和19)年1月14日付で遠野国民学校(赴任時:遠野尋常高等小学校)を退職(休職?)しています1。おそらくこの頃小笠原牧夫さんが体調を崩され、露さんは看病のために職を退いたと思われます。

小笠原牧夫さんが亡くなったのは敗戦間もなくの混乱している時期、52歳の若さでした。この時露さんは43歳2。結婚生活はわずか13年8ヶ月間でした。小笠原夫妻が儲けた二人の娘さんは当時10歳前後あたりでしょう。露さんは深い悲しみと共に心細さを抱いていたのではないでしょうか。

またこの少し前から、故郷の花巻では「ある男性」の話を発端に露さんの悪評が囁かれ始めました。

心強い友人との出会い

教会生活への復帰を考えはじめていたところたまたま一九四九年スイス人の宣教師が、遠野町の旧家で醸造業を営んでいる「M錬」の広間を借り教会の建物が出来るまでそこを伝導所としてお祈りの集まりやキリスト教の勉強会をしているということを聞き、(中略)旧家の「M錬」さんが部屋を貸している位だから確かな人々の集まりだと考えて出席したのである。
「M錬」は屋号でMがその家の姓であった。この家の娘Yがカトリックに入信していたことからここが遠野での初めての伝導所となったのである。

(中略)
MYは露より二十歳近く若くこれまで互に直接な交流はなかったが、四面楚歌的状況の中で生活していた露は、暖かく迎えてくれたYの旧家のお嬢さんらしいおっとりして純な人柄に惹かれ次第に年齢を超えて親しい交流をもつようになった。ところで出席して旧教(引用者注・カトリックのこと)であることを知って戸惑ったが、MYがやさしく何かと世話してくれ、「M錬さん」で開かれている集りなので途中で帰るわけにもいかず話しを聞いているうちに今まで知らなかったキリスト教の知識を得ていくらか旧教に興味を持った。
(中略)
そうして納得のいくまで『公教要理』の学習をして一九五一年(昭和26)三月二十五日、昨年建ったばかりの教会で洗礼を受けた。

上田哲「「宮澤賢治伝」の再検証(二)—<悪女>にされた高瀬露—」1996(平成8)年

夫を亡くした悲しみから立ち直った頃、信仰の面で変化が訪れます。MYさんという心強い友人との出会いには部外者ながら大変温かい気持ちになりました。

「四面楚歌的状況」というのは信仰の面だけの部分かと思われますが「場合によっては信仰を棄てなければならない」という状況は本当に辛かったことでしょう。約17年間よく耐えられたな、と思います。

勝手な言葉「後幸せな結婚をした」

さて、「校本宮澤賢治全集」及び「【新】校本宮澤賢治全集」の「高瀬は後幸福な結婚をした」という言葉。

「校本宮澤賢治全集」及び「【新】校本宮澤賢治全集」側は先述した露さんの結婚後の様子を知らなかったのだと思います。それについては前記事でも述べた通り賢治が生涯を閉じる前に縁が薄くなった人物のその後を詳しく記す義務などはないから、ある程度強引で適当な締め方でも良いと思います。

しかし私はこの言葉に不快感を抱くのです。
gooブログ版では「(「高瀬は後幸福な結婚をした」という言葉は)高瀬露に対する僅かながらの罪悪感の現れなのでしょうか」などと述べましたが、現在は「「校本宮澤賢治全集」及び「【新】校本宮澤賢治全集」側の偽善・格好つけ」と認識しています。

結婚後の生活を「幸せだったか不幸せだったか」を決める権利・言葉で表す権利は露さんにしかありません。
「何も知らない・知ろうともしない第三者が勝手なことを言うんじゃない!」と叫びたくなります。

「高瀬は一九三二(昭和七)年結婚により小笠原と改姓、遠野に移り住む。」と事実だけを記載していれば良かったのです。

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  1. 「整理のための年表」>「1944年(昭和19年)」参照。 ↩︎
  2. 1945(昭和20)年12月19日時点での満年齢。露さんのお誕生日は12月29日。 ↩︎
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