彼女の「実際の姿」(2)

引き続き上田哲さんの論文「「宮澤賢治伝」の再検証(二)ー<悪女>にされた高瀬露ー」より「日頃高瀬(小笠原)露さんと交流を持っていた(賢治との噂は知らない)人々」の声及び上田さんの露さんに対する印象を引用していきます。

上田さんも露さんに会っていた

上田さんは盛岡で2回露さんに会ったことがあるとのこと。1度目は1953(昭和28)年10月26日、2度目は月日不明ながら「それから間もなく」とのことなので1度目から半年以内と仮定します。その時の経緯・露さんの悪評など色々詳細に書かれていますが、当記事は「露さんの『実際の姿』」がメインテーマであるため省略します。

上田さんが露さんに会った際の状況と彼女に対して抱いた印象の部分を引用します。

わたしが初めて高瀬露にあったのは、一九五三年(昭和28年)十月二十六日盛岡のお城下の岩手教育会館で開かれた 「佐藤佐太郎氏歓迎歌会」の席上であった。
(中略)
頭を下げた彼女の姿を地味な人と思ったこととどこかで逢ったことがあるという思いが心をよぎったが、 その後彼女のことは忘れていた。もちろん彼女が賢治とかかわりのある人などとは全く知らなかった。

上田哲「「宮澤賢治伝」の再検証(二)—<悪女>にされた高瀬露—」1996(平成8)年

この時点で上田さんは露さんについて「若い頃に賢治とトラブルがあった人」と聞かされており、上田さんも「人気俳優を追いかけ回す娘さんのような話か」とあまり心に留めなかったようですが…

ところでそれから間もなく小笠原露に逢ったのです。月日は憶えていませんが盛岡市四ツ家町のカトリック教会の日曜日の午前九時からはじまる第二ミサの席である。昨年佐藤佐太郎歓迎歌会で逢った中年の婦人に似た人を見付けた。
(中略)
その婦人はベールをかけていたので信者であることは判っていたが、帰りがけに声をかけたところ遠野教会の信者の小笠原露であることと長女が盛岡の志家町にあるベトレヘム外国宣教会で調理の仕事を担当している同じ宣教会の日本人スタッフとして同僚であることもわかった。小笠原露の印象は、古いキリスト者によくある控えめでなにごとにも自分を抑制しようとするタイプと感じられた。

上田哲「「宮澤賢治伝」の再検証(二)—<悪女>にされた高瀬露—」1996(平成8)年

その後上田さんは岩手のカトリック教会の歴史をまとめる仕事をするようになり、その縁で賢治研究にも着手することになりました。そこで賢治と露さんのことも調べてみようと様々な賢治関連の書籍を読み、そこに書かれている「露さん像」に驚きます。

人々は、キリスト者や外の宗教者を紹介するとき儀礼的修辞的に「敬虔」ということばをよく使う。ぐうたらで不謹慎な人間の標本のようなわたしまでもカトリックであることが知れると「敬虔なクリスチャンであられる上田先生」などと紹介され苦笑することが折々ある。しかし高瀬露の場合は、敬虔ということば通りの人柄に思われた。

上田哲「「宮澤賢治伝」の再検証(二)—<悪女>にされた高瀬露—」1996(平成8)年

数々の賢治研究本が伝える「露さん像」は、今風に言うなら「あり得ない」ものだということになりますね。

様々な人の露さん評

関徳弥・森荘已池・高橋慶吾が伝える「露さん像」に驚いた上田さんは花巻に赴き、かつての勤務校や教会で露さんの印象を聞き取ろうとしますが、この時点で露さんが花巻を離れて20年以上経っており、教会もメンバーが大きく変わっていたため当時の露さんを知る人はほとんど存在せず、聞き取りは難航してしまいます。

次に遠野に行き調べたがカトリック教会関係は、彼女が健在であるので調査のようなかたちはとれないから世間話の中で それとなく彼女のことを聞いたところ「熱心な信者さんで親切な方」という異口同音の評価だった。次にわたしが『岩手短歌』の発行人、県歌人クラブの役員だったのと彼女も短歌を作っているので短歌にかこつけて 土地の歌人たちをたずね彼女と交流のあった人々からこれもそれとなく聞き出したところ評判がよかった。中には彼女の教え子の親もいた。ただ賢治の教え子で遠野地区の教員を歴任した高橋武治(入婿で改姓—沢里)の周辺と婚家にかかわる人々の間では 「悪女」説が信じられ彼女の評判は悪かった。最後に小笠原露のカトリック入信の導き手となったMYは、小笠原露を高く評価し模範的信者で、家庭の子供たちに対する宗教教育も適切であり、母親の感化で娘の一人はゲオルグの聖フランシスコ会の修道女になっている、と語っている。MYは露の信仰生活についていろいろ具体的な例をあげて彼女を奨揚しているが省略する。

上田哲「「宮澤賢治伝」の再検証(二)—<悪女>にされた高瀬露—」1996(平成8)年

遠野では具体的な証言を沢山得ることが出来ました。賢治の教え子周りでは残念ながら露さんの評判は良くなかったようです。恐らく「外面が良いだけ」みたいな捉え方をしていたのでしょう。

教え子さんの話

他の賢治研究本からも、露さんの教え子さんから聞き取りをした話を引用します。

遠野市上郷小学校の校長TJ氏が、当時の卒業生のOKさんの話を聞いて報じて下さった。
――五、六年生の時、裁縫と唱歌を教わった。やさしく物静かな先生で、いつもきれいな着物を着ていた。おなかが大きく授業中にいねむりをしていたこともあった、という。
わたし(米田)も、スキー場の賄いをしている、昭和九年の卒業生で七四歳
(引用者注・執筆当時)のOKさんを訪ねた。
――色の白い、ひたいつきなど歌手の藤あや子そっくりのきれいな先生で、語れば朗らかな人だけれど、泣きたいような顔をする時もあったのす、なんとなく悲しいことがあるようだったんす、あとで考えると、昭和八年に宮沢賢治が亡くなった、その頃だったんだべか、と言う。

米田利昭「宮沢賢治の手紙」 大修館書店 1995(平成7)年

言葉は少ないですが、露さんの「実際の姿」がよく伝わってくるお話だと思います。上田さんが聞き取った数々の証言に共通する「優しい」「控えめ」というキーワードも出ています。時々悲しそうな顔をすることがあったという言葉には切ない気分になりますね。

次の記事では「実際の露さんの姿」と「伝えられている露さん像」を比較し、感想や意見を述べていきたいと思います。

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