【資料】儀府成一氏の記述に対する解説と指摘

上田哲氏の論文「「宮澤賢治伝」の再検証(二)ー<悪女>にされた高瀬露ー」より「儀府成一氏の内村康江(高瀬露に冠した仮名)に関する記述への解説と指摘」部分を引用しております。

(引用者注:森荘已池)の「彼女の思慕と恋情は焔のように燃えつのって」は森の想像である。まあ、この程度の想像なら許す余地があるが、儀府成一の『宮沢賢治・その愛と性』(一九七二年(昭和四七)一二月二五日芸術生活社刊)になると想像は更に拡大されていく。
(儀府は高瀬露のことを一応内村康江と仮名で書いている)

しかし康江の気持は、低い方へさそわれて流れ下る水のような自然さで、好意から思慕へ、思慕から恋愛感情へと、急速に変化し、成長していった。それと気づかなかったのは、賢治だけである。賢治が意識したとき、相手は目をぎらぎらさせて、いや目ばかりか全身を燃えたぎらせて、ぶつかりそうな近さに立っていた。それはもはやまぎれもなく、成熟した性器を完全にそなえたひとりの異性であった。
賢治は戦慄した。今にもおっかぶさって来そうなその性器に——性器という感覚に。

こん度は、賢治の心情の内奥まで立入っている。これは想像というより下劣な儀府の心情の表現にすぎない。このような本が研究書とよばれまかり通り研究文献目録に登載されている。
日本の文学研究のレベルの低さが悲しくなった。

なお、儀府は(内村康江はそのとき二十二か三で、顔も肌も小麦いろにちかく、若さと健康がピチピチあふれているような娘であった)と書いているが、彼は一度も露には逢っていない。彼が賢治と文通で交際をはじめたのは一九三〇年(昭和5)からで初めて賢治に逢ったのは一九三二年(昭和7)である。彼の高瀬露についての記述は、森荘已池や関登久也、高橋慶吾などの文章を下敷にして勝手にふやかしたものに過ぎない。(内村康江はそのとき二十二か三)は前出の『宮沢賢治と三人の女性』から抄出紹介した部分によると思われる。ただ、露は一九〇一年(明治34)生れだから<一九二八年の秋>二十七歳ぐらいであった。当時としては大年増女であった。また高瀬露は、地味で控え目な人だったのでいつの年代でも年令より数年ふけて見えたというのが彼女を知る人の共通の印象であった。二十七歳の年増の女性が二十二、三歳に見えたのは森の目のせいで仕方がないが、他人の書いたものを調べもせず丸写しにして二十二か三とした儀府の姿勢は研究者とは言えない。

上田哲「「宮澤賢治伝」の再検証(二)ー<悪女>にされた高瀬露ー」 1996(平成8)年
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