悪評の原因について考える(2)

頂いたコメント・管理人の返信(4)

まずは、高橋慶吾氏という人物についてみてみたいと思います。
高橋氏のプロフィールを以下に引用します。

明治39年(1906)12月28日~昭和53年(1978)4月23日
江刺郡稲瀬村出身。父は稲瀬村や花巻川口町などの養蚕教師や麦作指導を通じて賢治を知っていた。
父は慶吾の将来を案じ、農耕自炊中の賢治を訪問させた。以後羅須地人協会に出入りし、楽団でヴァイオリンを弾いたりした。
賢治は高橋の職を心配し、昭和2年レコード交換会を開かせた。3年には共済組合を組織し、さらに消費組合とした。のち、この事業のうちの牛乳販売を続けたが戦時中は休業。戦後は豆腐製造業。
少年時からキリスト教信者だったが、賢治の影響により仏教を信仰、昭和43年出家、慶雲と号し無寺托鉢の生活を送った。家で賢治遺墨店を開いた。
              (江刺ルネッサンス・賢治に関わりのある人々より)

太字下線部「少年時よりキリスト教信者だった」ということは、上記資料以外にも宮沢賢治全集や数々の賢治評伝本でも書かれています。しかし、その点を上田哲氏は以下のように指摘しています。

『校本宮沢賢治全集』(第十三巻書簡)の「受信人索引(付・略歴)」の「高橋慶吾」の項に<少年時よりキリスト教信者だったが>と記載されているが誤りである。花巻のバプテスト教会の在籍名簿には会員としての記録はない。高橋は東京に一時行っていた時期があり、その時他のプロテスタント教派で受洗して、花巻には自分の所属教派の教会がない場合客員会員としてバプテスト教会に所属したことも考えられるので調べたが、その記録もない。

実は、花巻地方は保守的、世俗的気風の強い土地柄で中々キリスト教が定着しなかった。

(中略)

花巻のバプテイスト教会が巡回教会から独立した教会として定着するのは一九三〇年ごろでその基礎作りをしたのは林文太郎牧師、阿部治三郎牧師である。高橋慶吾が出入りし、高瀬露が洗礼を受けたのは佐藤卯右衛門の巡回教会時代である。ただ日本社会の一般的な道徳観にくらべかなり厳しいキリスト教倫理を受け容れ、イエスを受肉せる神子キリストと福音的信仰告白をして受洗に至る者は少なかった。高橋慶吾も信仰には至らないで教会を離れていったのである。
(上田哲「七尾論叢11号」所収「「宮澤賢治論」の再検証(二)―<悪女>にされた高瀬露―」より)

花巻におけるキリスト教伝道は入っては撤退の繰り返しだったようで、大正デモクラシーの気運に乗った若者たちが集うことでやっと定着していったということです。
詳細はこちらをご覧下さい。
そんな状態ですから高橋慶吾氏が「少年時」からキリスト教徒だったとは考えにくいです。

では、高橋慶吾氏の人となりはどうだったのでしょうか。上田哲氏の論文から引用します。

高橋慶吾を戦前から知っている、第一次『イーハトーヴォ』以来の菊池曉輝主宰の「宮沢賢治の会」の会員で『農民芸術』その他に賢治についてのエッセイを寄せている鏑慎二郎は、「あの人は、新しいことが好きで理想主義者だが、足が地についていない感じもしました。」と語った。職業も転々としていたこともあって鏑だけでなく彼を知る人は余り信用していなかったようである。ある時期賢治の高弟を自称していて一部では反感も持たれていたという。
(上田哲「七尾論叢11号」所収「「宮澤賢治論」の再検証(二)―<悪女>にされた高瀬露―」より)

先に引用したプロフィールを見ると、大変失礼ですが「この人は結局何がしたかったんだろう」という印象を抱いてしまいます。

足が地についていないだけでなく自分のしたいことのビジョンもしっかり定められず、また自己顕示欲の強い人のようにも見えます。多少軽薄な印象さえ抱いてしまいます。今風に言えば、「よく大風呂敷を広げるフリーター」といった感じでしょうか。

控え目な性格で自分を律するのに厳しく、小学校教諭を定年まで勤め上げた高瀬露とは対照的な人柄です。

高瀬露はともかく、高橋氏は高瀬露を少し煙たく思っていたのではないでしょうか。そんな高橋氏がキリスト教とも相容れず、教会を離れていったのも分かる気がします。


頂いたコメント・管理人の返信
高橋氏(三島) 2008年10月10日

35年前、花巻へ行ったとき、宮澤先生遺墨店に行きました。
「雨ニモマケズ」の暖簾や、「本年は作柄もよく・・・」で始まる有名な物々交換会のチラシなど売っていました。
お店のおばあさんと話をしていると、おじいさんが現れ、挨拶だけして出て行きました。
一瞬の印象しかありませんが、今でもあの老人が高橋慶吾氏であろうと思っています。
宮澤清六氏にお会いしたとき、そのお店に行ったことを話しましたが、「そうですか、お婆さんはお元気でしたか」と言われただけで他の話題に移りました。
あまり仲良くないのかなというのが19歳のわたしの思い出です。
でも、こんな何でもない話から様々なうわさが派生するのでしょうね。
どうしても(ポラン) 2008年10月12日

不思議というか、わからないのが
露さん宛、とされる書簡の下書きがなぜ彼女宛だと断定されるのか、ということです。
羅須地人協会に出入りした女性は彼女だけではなかったはずですし。。。。
誰がどのような経緯で、そうしたのか。
私の見方が悪いのか、校本をいくら見ても
理解できません。
ありがとうございました(tsumekusa) 2008年10月23日

三島さん、初めまして。

高橋慶吾氏は宮沢家の人々にも
信用されていなかったことが伺えますね。
次エントリの参考にさせて頂きます。

興味深いコメントありがとうございました。
確かに……(tsumekusa) 2008年10月23日

ポランさん、こんにちは。

>露さん宛、とされる書簡の下書きが
>なぜ彼女宛だと断定されるのか、ということです。

そう言えば、確かに……。

下書きのどこかに露さんの名前があったのか、
「結婚」の話があるから露さん宛てと決めつけてしまったのか、
それとも他に露さん宛と断定できる手がかりがあったのか、
全く分からないですよね。
「高瀬露宛てと断定できた理由」を明らかにしない理由が
あるのではないか……と勘ぐってしまいます。

コメントありがとうございました。
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