「中傷行為」伝説について考える(4)

1-3.「中傷行為後・もしくは中傷行為期間中」の高瀬露

中傷行為後、もしくは中傷行為の期間中、当の高瀬露は何をしていたのか……

2003年7月に見つかった関氏の日記には、高瀬露は1930(昭和5)年10月4日に関氏の自宅を訪れ賢治との結婚話をし関氏の母親の怒りを買い、6日に再び関宅を訪れ賢治にもらった本を返すように頼んだという記述があります。()

高瀬露が悪評系の言う「優しいが思い込みが激しく、独り善がりで押し付けがましい」ような人物でも、他人を中傷するという愚を犯した後もしくは犯している最中に中傷の標的にしている人物は当然のこと、その親族にも顔を合わせることは普通出来ないはずです。

そういうことが平気で出来るほど面の皮の厚い人物ならわざわざ関家を訪ねず堂々と宮沢家に足を運ぶと思います。

1932年4月には遠野の小笠原牧夫氏のもとに嫁ぐために遠野に入っていました。そして上郷村(現在遠野市)の小学校で教鞭をとり、今でいう兼業主婦の生活をしています。
つまり、賢治が関氏のもとを訪れ了解を求めたという時期まで約半年、高瀬露は花巻にいないということになります。

2008年6月現在遠野市内の(高瀬露の生活範囲と思われる)駅から花巻まで行ける電車の本数は以下の通り(平日のみ、快速除く・goo路線1より・別窓)。

岩手上郷駅遠野駅:共に8本

また、goo路線2(別窓)にて調べた2008年6月現在の所要時間は以下の通り。(快速列車での所要時間は除く)

岩手上郷駅:1時間11分~1時間15分
遠野駅:1時間1分~1時間5分

当時遠野ー花巻間は片道2時間ほどかかったと言い、まして本数は推して知るべしでしょう。

賢治が関氏に了解を求めに行ったという時期には長女を懐妊していたということです……が、そのこと以前の問題ではないでしょうか。

小学校での勤務を終えた時点で既に花巻へ行く余裕などありません。さらに家では主婦としての仕事もあるでしょう。休日を使うという可能性があるとも考えられますが、平日の忙しさに加え慣れない土地での生活でてんてこ舞いだっただろうという時に、汽車での往復が4時間近くかかるような場所に、わざわざ人の悪口を言うためだけに行く気など起こるでしょうか。

中傷行為の舞台を花巻から遠野に移していたかも知れないとも考えられますが、そうであるなら遠野で高瀬露に関わっていた人々からそのような話が出てくるはずです。しかしそのような証言はなく……それどころか、賢治を心から敬愛している様子だった、という話しかありません()。

ならば1930年10月から1932年4月の間はどうだったか、というと……結婚の準備や転勤に関わることで忙しい時期だったはずです。人の中傷なんかしている時間など取れなかったのではないでしょうか。

※誤記がありましたので修正致しました。申し訳ありません。(2008年7月26日)


  1. サービス終了済みにつきジョルダン時刻表で代替。混乱を防ぐためこの文字のリンクは切っています ↩︎
  2. 同上 ↩︎
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