
上田哲氏は、悪評系の述べる矛盾点を詳しく解説しています。
距離については地図を見れば一目瞭然です。
まず、熊堂古墳群はどの辺りにあるのでしょうか。花巻市博物館1によると上根子字熊堂2とあります。
それをもとに寳閑小学校近辺と思われる場所をgoo地図で検索した結果がこちら。3
また、同じく地図で当時の羅須地人協会の位置も検索しました。こちら。4
ご覧になれば分かりますが5、直線距離では四キロ程度、道を辿って行けば軽く五キロは超えます。
大雑把に「西方の村」と言っただけでもかなり離れていることが分かるのではないでしょうか。
私も花巻を旅行した際現地をレンタカーで走ったことがありますが、車で走っていても……改めて言うまでもないでしょうが「遠い」ことがはっきり分かる距離でした。
上田氏も述べておりましたが自家用車は当然のこと、公共交通機関も普及していない当時、これだけの距離を往復してまして仕事を持つ身で「一日に二度も三度も訪れる」なんて、到底出来ることではありません。仮に自転車を所有し使用していたとしても、かかる時間は推して知るべしでしょう。
(また将来花巻を訪れる機会があれば、寳閑小学校近辺から羅須地人協会跡までの徒歩による所要時間を測定したいと思います。)
実際高瀬露は羅須地人協会の近所に住んでいたのですが、そうだとしても一日に二度は(出勤・帰宅時)ともかく三度以上の訪問は難しいのではないでしょうか。
当時の小学校の就業時間は良く分からないのですが、午後五時に学校を退勤したとして自宅に着くのは午後七時頃。そんな時間に賢治のもとを訪れたとしても、その後三度目の訪問のための時間など取れないはずです。自分の仕事の明日の準備もあるでしょうし。
どちらにしても、伝えられているような「頻繁な訪問」が毎日あったとしたら、高瀬露が悪評系の伝えるような人柄だったとしたら、さっさと教員を辞めて賢治のもとへ通うことを優先させると思います。
しかし、高瀬露は教員を続けていました。
そして、これまで述べて来た高瀬露の教え子や関係者による彼女への評価を見れば、彼女がそんな人間だったかどうかはもう書くまでもないでしょう。
頂いたコメント・管理人の返信
初めまして(風屋) 2007年11月15日
検索でこちらを発見しました。
過去の記事へのコメントご容赦下さい。
私は花巻在住、それこそ熊堂古墳群のすぐそばに住んでいます。
この近くにあった小学校は戦後は上中小学校、
戦前は確か湯口小学校上中分教場だったと聞いています。
宝閑小学校は鍋倉なのでもっと西の方ですね。
一本杉の北側だと思うので、更に2~3km遠いです。
ただし大正時代から昭和45年頃にかけて
花巻市街地から西に延びる花巻電鉄という電車があり
花巻から西方へ向かう人、西の村から出てくる人達は
大抵この電車を使ったのではないでしょうか。
花巻電鉄一本杉停車場から宝閑小学校までは、
恐らく徒歩20分ほどでしょう。
当時羅須地人協会のあった今の賢治詩碑のあたりだと
花巻電鉄の西公園停車場からやはり徒歩で20分ほどです。
単なる想像での意見でした。すみません。
ありがとうございました(tsumekusa) 2007年11月17日
風屋さん、初めまして。
貴重なコメント誠にありがとうございました。
恥ずかしながら、このエントリを上げるにあたって
電鉄の存在をすっかり忘れておりました。
花巻電鉄について調べたのち、
補足のエントリを上げたいと思います。
いえいえ(^^;(風屋) 2007年11月18日
綿密に調べられているところに
茶々を入れるような想像のコメントで失礼しました。
私も賢治さんについてはかなり思い入れがあるものですから。
私の祖父や伯父などが賢治さん周辺と関係があり、
死んだ父も清六さんとは文学仲間だったので・・・。
この地の行政や経済界が
好きなように賢治さんを持ち出すことに違和感を覚えています。
生きている頃は、石を持て追われた啄木ほどではないにせよ
変人として白い目で見ていたのが花巻の人達だったらしいので。
こちらのブログも時々拝見させて下さい。
私の知っている知識や花巻のことでわかることなら
何でも聞いて下さい。