高瀬露の悪評を知ったきっかけと、現状に思うこと

私が高瀬露の悪評を初めて知ったのは小学六年生のころ、宮沢賢治の伝記漫画を学校の図書室で見つけたことがきっかけでした。

それには高瀬露のことはただ「小学校の女の先生」と記されているだけで、その女の先生が高瀬露という名であることを知ったのは2003年のことでした。
中学生時代以来久し振りに賢治の童話や詩を読むようになり、賢治という人のことを詳しく知りたくなり、児童向けの伝記本から作家評論本まで、賢治の名が付いていれば何でも手に取っていた時でした。

それらの本を読んで分かったことは、「高瀬露は、一方的に賢治を好きになり押しかけ女房まがいのことまでして、思いが叶わぬと掌を返したように態度を変え、賢治の中傷をして回った問題のある女性」であるということです。

それは感心出来ないことで、伝記や評論本に多少悪く書かれても仕方ないでしょう。
本当のことなら、ですが。

私はこれらの話を読んでいてずっと違和感を覚えていました。
何か裏がありそうな気がする、と。

その違和感はやはり当たっていたようでした。
そう気付いたきっかけは、何気なく手に取った一冊の薄い本……河出書房新社発行の「図説 宮沢賢治」でした。

それまで伝えられて来た高瀬露の行動はみな裏付けのない一方的な情報で高瀬露側の言い分は何一つ取り入れず、また何の検証もされていないものであると知り、私は憤りを覚えました。

今でも憤りを抱いています。それが過ぎて気分が悪くなります。
恐怖すら覚えます。そして、悲しいです。

私と同じように、いやそれ以上に宮沢賢治という人に惹かれ彼の童話や詩を好きなはずの研究者や愛好家たちが、一方的な情報で決めつけて一人の女性に「悪女」のレッテルを貼り、そしてその悪評をきちんと調査もせず検証もせず、それをさらに広めてゆき長年にわたりその女性を傷付け続けてきたことが。
そのようなことに無感覚でいて、知らぬ顔を続けていることが。

この悪評をかぶせられたのが、本当は賢治聖人化のために作られた全く架空の女性ならば、まだ良かったでしょう。
(それ以前に、聖人化のための悪役をわざわざ作らなければならなかったのかという疑問もありますが)

この問題の中心である宮沢賢治と高瀬露、そして彼らに関わり露の悪評を広めた人々は既に亡くなっている現在、このようなサイトやブログを開くのは今更な感じがしないでもないです。

しかし、ネットサーフィンをしている際に、賢治生誕百年がきっかけで作られた映画やミュージカルは悪評を鵜呑みにしさらに広め、高瀬露をあのような女性だと信じる人が増えていることを知りました。

そして絶え間なく発行され続ける賢治研究書も、高瀬露をそのような女性であるということを前提に論じ続けています。(そのような記述のある最近の研究書は、山折哲雄氏の著書「デクノボーになりたい 私の宮沢賢治」)

以上のことで問題はいまだ、現在進行形なのだと判断し、自己満足に留まってしまうかも知れないけど、憤るだけよりはずっといいと信じて、このサイトとブログを始める決心をしました。

名もないただの愛好者の一人である小さな存在の私には、可能な限りかき集めた既存の資料だけに頼り、それをもとに出来事を年譜にまとめ、出来る範囲で比較をし、考察をし、こうしてWebの片隅でそれを発表していくことしかできません。けど、何か少しでもきっかけを与えられれば良いなと思っています。

そして、賢治研究家の先生方には高瀬露の伝説について正しい検証を行い間違いがあればそれを認め正すというきちんとした対応を望んでいます。

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