高瀬露の半生

(お詫び)このエントリは、順番上日付を5月19日としておりますが実際は記載忘れに気付いた本日6月19日に記載いたしました。こちらの不手際によりご不便をかけましたことを深くお詫びいたします。

今回は、上田哲氏の論文「「宮澤賢治論」の再検証(二)<悪女>にされた高瀬露」」から高瀬露の半生(結婚後から終戦直後まで)についての記述を引用します。

一九三二年<昭和七年>四月十一日、岩手県上閉伊郡遠野町第六地割四番地の小笠原牧夫と結婚し遠野へ移住した。花巻では教会の活動的信者であった彼女は一応遠野のバプテイスト教会へ転籍した。一応というのは、外語学校を出た英語の先生という仲人の話で結婚したところ
(引用者注・小笠原牧夫氏は) ある時期英語の講師をしたことがあったらしいが、その時は鍋倉神社の神職であったのである。親は知っていたかも知れないが、本人は全く聞いていなかったのである。

(中略)

夫となった小笠原牧夫は、一八九三年(明治二十六年九月九日)生まれで露より八歳年上の三十九歳。露も三十一歳。今更、逃げて帰るわけにもいかず彼女は悩んだという。幸い牧夫はやさしい性格で外語学校で英語を学んだだけあってある程度の理解をもっていたようである。それで折々教会へ行くことも出来たが、周囲の圧力の方が強かった。「神社へ嫁に来たのにヤソなどに行く。」と彼女への批難や妨害のいやがらせに耐えながら教会との連絡は保っていたが、次第に教会への足は遠退かざるを得ない状況に追いつめられていった。しかし彼女はキリスト教の信仰を棄てたのではない。それであるから教会を遠退いていることに対して負い目を抱きながら生活していた。
そして一九四五年敗戦を迎えた年の十二月十九日夫の牧夫が死去した。夫の死で彼女も次第に神社との縁が薄くなっていった。教会生活への復帰を考えはじめていたところたまたま一九四九年スイス人の宣教師が、遠野町の旧家で醸造業を営んでいる「M錬」の広間を借り教会の建物が出来るまでそこを伝導所としてお祈りの集まりやキリスト教の勉強会をしているということを聞き、バプテスト教会の方は長く疎遠になっていて一寸行きずらい気もしていたのでカトリックの集まりとは知らず(スイスは新教の国という朧げな知識もあったので)、また旧家の「M錬」さんが部屋を貸している位だから確かな人々の集まりだと考えて出席したのである。「M錬」は屋号でMがその家の姓であった。この家の娘Yがカトリックに入信していたことからここが遠野での初めての伝導所となったのである。

(中略)

露の婚家先の小笠原家の一族も旧南部藩の上級の士族の末裔と伝えられており小さな田舎町遠野では上流階級に属していた。Y.Mは露より二十歳近く若くこれまで互に直接な交流はなかったが、四面楚歌的状況の中で生活していた露は、暖かく迎えてくれたYの旧家のお嬢さんらしいおっとりして純な人柄に惹かれ次第に年齢を超えて親しい交流をもつようになった。ところで出席して旧教であることを知って戸惑ったが、Y.Mがやさしく何かと世話してくれ、「M錬さん」で開かれている集りなので途中で帰るわけにもいかず話しを聞いているうちに今まで知らなかったキリスト教の知識を得ていくらか旧教に興味を持った。

(中略)

そうして納得のいくまで『公教要理』の学習をして一九五一年(昭和26)三月二十五日、昨年建ったばかりの教会で洗礼を受けた。

「校本」及び「【新】校本」には「高瀬は後幸福な結婚をした。」とあります。

確かに高瀬露は二人の娘に恵まれたということもあり、傍目から見れば幸福な結婚生活だったかも知れませんが、上田氏の記述を見ると彼女はかなり辛い時期を、特に信仰の面において長く送っているように見えます。

そして敗戦間もなくの混乱している時期に夫を亡くしています。小笠原牧夫氏は享年52、当時の露は44歳、結婚生活はわずか13年間でした。当時二人の娘もまだ10歳前後辺りでしょう。

幸せの基準など人それぞれですが、私には到底幸福とは断言できない結婚生活であったように思えます。一番の幸いは、牧夫氏が優しい性格でキリスト教にもある程度の理解を示していたことでしょうか。

それとほぼ同時期に故郷の花巻では、高橋慶吾氏を発端に彼女の「悪評」が囁かれ始めました。

そして夫を亡くした悲しみから立ち直り、信仰でも心強い友を得て再び歩み始めた時期に、彼女の悪評は関登久也氏や森荘已池氏の手によって尾ひれを付けられ、全国区へと広がっていったのです。

賢治研究者側は全く高瀬露の半生を知らなかったのでしょうか。
もしかすると、「校本」及び「【新】校本」における「高瀬は後幸福な結婚をした。」という記述は、高瀬露に対する僅かながらの罪悪感の現れなのでしょうか。

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