色眼鏡抜きの評判(2)

次に、同じく「再検証(二)」より上田氏が実際に高瀬露に会った際抱いた印象及び、高瀬露存命時の周囲の人々の彼女に対する評判を記している部分を引用します。

わたしが初めて高瀬露にあったのは、一九五三年(昭和28年)十月二十六日盛岡のお城下の岩手教育会館で開かれた「佐藤佐太郎氏歓迎歌会」の席上であった。

(中略)

また、名前が紹介された時、頭を下げた彼女の姿を地味な人と思ったこととどこかで逢ったことがあるという思いが心をよぎったが、その後彼女のことは忘れていた。もちろん彼女が賢治とかかわりのある人などとは全く知らなかった。

(中略)

ところでそれから間もなく小笠原露に逢ったのです。月日は憶えていませんが盛岡市四ツ家町のカトリック教会の日曜日の午前九時からはじまる第二ミサの席である。昨年佐藤佐太郎歓迎歌会で逢った中年の婦人に似た人を見付けた。当時わたくしは戦後岩手の宣教を委託されたスイスのベトレヘム外国宣教会の伝道士(カテキスト)兼日本語教師をしていた。小笠原露ではないかと思ったが確信はなかった。

(中略)

その婦人はベールをかけていたので信者であることは判っていたが、帰りがけに声をかけたところ遠野教会の信者の小笠原露であることと長女が盛岡の志家町にあるベトレヘム外国宣教会で調理の仕事を担当している同じ宣教会の日本人スタッフとして同僚であることもわかった。小笠原露の印象は、古いキリスト者によくある控えめでなにごとにも自分を抑制しようとするタイプと感じられた。

(中略)

人々は、キリスト者や外の宗教者を紹介するとき儀礼的修辞的に「敬虔」ということばをよく使う。ぐうたらで不謹慎な人間の標本のようなわたしまでもカトリックであることが知れると「敬虔なクリスチャンであられる上田先生」などと紹介され苦笑することが折々ある。しかし高瀬露の場合は、敬虔ということば通りの人柄に思われた。そういう彼女を知っているわたしには、流布している高瀬露の話は信じられなかった。それで夏休みの休暇などを利用してまず花巻に行き学校や教会など一般の人々の彼女の印象などを聞き出そうとしたが花巻は、土地を離れて二十年以上経っているので高瀬を知る一般の人々は探せなかった。学校の方は全くなんの手係りも得られなかった。バプテスト教会の方も彼女が通っていた頃木村文太郎牧師から中村牧師、若松守二牧師その他何人もの牧師の交替があり現在の牧師は着任間もなくでなにもわからないと言い、会員も戦争をはさんでメンバーががらりと変わり、教会へ来ている人々は戦後受洗した人々が多くここでも高瀬を知る人に逢うことが出来なかった。

次に遠野に行き調べたがカトリック教会関係は、彼女が健在であるので調査のようなかたちはとれないから世間話の中でそれとなく彼女のことを聞いたところ「熱心な信者さんで親切な方」という異口同音の評価だった。次にわたしが『岩手短歌』の発行人、県歌人クラブの役員だったのと彼女も短歌を作っているので短歌にかこつけて土地の歌人たちをたずね彼女と交流のあった人々からこれもそれとなく聞き出したところ評判がよかった。中には彼女の教え子の親もいた。

ただ賢治の教え子で遠野地区の教員を歴任した高橋武治(入婿で改姓・沢里)の周辺と婚家にかかわる人々の間では「悪女」説が信じられ彼女の評判は悪かった。

最後に小笠原露のカトリック入信の導き手となったY.Mは、小笠原露を高く評価し模範的信者で、家庭の子供たちに対する宗教教育も適切であり、母親の感化で娘の一人はゲオルグの聖フランシスコ会の修道女になっている、と語っている。Y.Mは露の信仰生活についていろいろ具体的な例をあげて彼女を奨揚しているが省略する。

前エントリから今回のエントリに記述した色眼鏡抜きの証言をまとめると、実際の高瀬露は「地味で控えめで自己には大変厳しいが他人には非常に優しく、決して人の悪口を言わず、仕事も信仰も非常に熱心で好感の持てる模範的な」女性だったようです。また、この時代の女性としてはごく普通の性格であったことも分かります。

これに対しこれまで我々賢治ファンの間に流布されている高瀬露像は、良く言えば「大胆で情熱的で、自己をはっきりと前面に出す」、悪く言えば「厚かましく押し付けがましく、自分勝手」となっています。

評伝本によってはこれにミーハー根性むき出しな面までプラスされています。1996年に公開された宮沢賢治の生涯を描いた映画は2本ありましたが、登場した高瀬露のキャラクターはどちらもこのような感じでした。彼女に対する調査をきちんと行わず、流布されている伝説のみで作られた人物像なのです。

ただ、高瀬露の周囲の人々や上田氏が語った高瀬露の印象は、いずれも彼女が40代~亡くなる前までのものであり、若い頃、特に彼女が賢治を訪問していた26歳~27歳頃の彼女の印象や評価についてのコメントはありません。

だからその評価は年を重ねた結果のものであって、若い時は評伝本に表されているような性格だった可能性もあるでしょう。

しかし、多少程度の違いならそういう可能性も考えられますが、両者は180度別人だと言っても良い程違いがありすぎませんでしょうか。

私は上田氏やE.K氏やS.K氏の証言を初めて目にした時はその違いに驚きました。

では、若い時の彼女はどんな人間像だったのでしょうか。

次エントリでそれに関する引用と、まとめを行います。

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