色眼鏡を外そうとしない姿勢

米田利昭氏の著書「宮沢賢治の手紙」に、上郷小学校時代(在任期間・昭和七年三月三十一日~昭和九年三月三十日)の高瀬露の教え子さんの証言が掲載されており、羅須地人協会に通っていた時代に一番近い彼女の姿が一部分かるので引用します。

遠野市上郷小学校の校長J.T氏が、当時の卒業生のK.Oさんの話を聞いて報じて下さった。
――五、六年生の時、裁縫と唱歌を教わった。やさしく物静かな先生で、いつもきれいな着物を着ていた。おなかが大きく授業中にいねむりをしていたこともあった、という。
わたし(米田)も、スキー場の賄いをしている、昭和九年の卒業生で七四歳(引用者注・執筆当時)のK.Oさんを訪ねた。
――色の白い、ひたいつきなど歌手の藤あや子そっくりのきれいな先生で、語れば朗らかな人だけれど、泣きたいような顔をする時もあったのす、なんとなく悲しいことがあるようだったんす、あとで考えると、昭和八年に宮沢賢治が亡くなった、その頃だったんだべか、と言う。

おなかが大きい、というのは妊娠中のことであり、授業中にいねむりをしていたのはその影響でしょうか。

それはともかく、やはり先エントリの証言に出てきた「優しい」「控えめ」に共通する言葉が教え子さんの証言にも出ています。(米田氏はそれを見落としているのか、高瀬露像を「大胆で情熱的な女性」としています。

実際の高瀬露は優しく地味で控えめな人だったというのはほぼ間違いないでしょう。

ではなぜ、こういう人が一転して「大胆で情熱的で、自己をはっきりと前面に出す」——裏返せば「厚かましく押し付けがましく、ミーハー根性むき出し」な派手な女性に描かれたのでしょうか。また、自分の思い通りに行かなかったからと、相手の中傷をするような自分勝手な女性に描かれたのでしょうか。

良く考えて下さい。

押し付けがましく相手に迫った女性が、いくら年を経ているからと言え若い男女の交際の在り方に対し(普段他への批判を口にしないのに)批判的な話をするほど苦々しい思いなどするでしょうか。「右の手の為す所左の手之を知るべからず」を体した人だという評価が出るでしょうか。

ミーハー根性むき出しで自分勝手な女性が、中傷までするほど憎んだ相手に哀悼の情や敬愛の情を思わず顔に示したり、称え偲ぶような短歌を作ったりするでしょうか。ましてや人に話などするでしょうか。

そして、それに加えて厚かましい人間が、周囲の人々や教え子たちの記憶に長く残るほど慕われたりするでしょうか。

負い目を抱きながらも、神職である夫のことや家のことを慮って、教会通いをやめてしまったりするでしょうか。

「校本宮澤賢治全集」「【新】校本宮澤賢治全集」は高瀬露を「明るく率直な人柄」と記してます。それはまだいいのです。

しかし「高瀬露の愚行」をきちんと検証もせず今だに史実として流し続けている点には、いい加減さと共に高瀬露をいつまでも悪女(とまで行かなくとも少なくとも愚かな人間)として扱い続けたいという底意までをも感じます。

もう少し彼女の生涯について掘り下げ、鑑みても良かったのではないでしょうか。

以前記した彼女の没年月日についてのいい加減な記述と合わせて私は賢治愛好家の端くれとして、何だか情ないような気分になります。

タイトルとURLをコピーしました