
まず、「「宮澤賢治論」の再検証(二)<悪女>にされた高瀬露」」から高瀬露の没年月日についての資料を引用します。
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4号 1951年3月25日
遠野教会において洗礼を受ける。
小笠原 露
出生1901年12月29日
(filia) 高瀬大五郎とじゅん子の娘
本籍 遠野
堅振1953年5月10日 現住所 Tono, 7 chiwari, 3 Banchi, 6machi
No.6 (遠野 7地割 3番地 不明個所)
(Sub nomine)
霊名 モニカ 授洗者 フランツ ガイツセル
代母 Y.Mアグネス
帰天1970年7月23日 署名者 フランツ ガイツセル ベトレヘム外国宣教会士
(死去)
———————————————————————————遠野カトリック教会の「洗礼台帳」には上欄のような記載がある。(原本はラテン語なので和訳した。遠野教会設立以前の受洗者は、盛岡教会の台帳)
四号というのは、独立した教会になってからの四番目の意味。
霊名とは、日本で俗にクリスチャンネームといわれているもの。
代母は、洗礼や堅振のサクラメントを受けるとき信仰の保証人、肉親の母に対して霊的生活の母という意味。男の場合は代父という。一般に年上の者がなるのだが、年下のY.Mが代母になっている。
(上田哲 「「宮澤賢治論」の再検証(二) <悪女>にされた高瀬露」」より)
「校本」「【新】校本」は1970年2月23日と記していますが、高瀬露の通っていた遠野カトリック教会の洗礼台帳には1970年7月23日とあります。
洗礼台帳は高瀬露と密接な関係のあった遠野カトリック教会の記載であるのでこちらが正しいと考えて間違いないでしょう。
「校本」「【新】校本」側は、一体何をソースとして高瀬露の没年月日を1970年2月23日としたのでしょうか。一日や二日の違いならともかく(良いとは言いませんが)、没年月日を5ヶ月も早く(当然ながら新暦と旧暦を混同しているというわけでもない)誤記し、それを修正しようともしないのは何故なのでしょうか。
このたった一点の相違点だけでも、賢治研究者側の高瀬露に対する姿勢が透けて見えるような気がします。