
儀府成一氏は、1972年に「宮沢賢治・その愛と性」という本を出版しました。
その中に賢治と高瀬露のエピソードがかなりのページ数を使って紹介されていますが、私はその文章には森荘已池氏の文章以上に目を覆いたくなるほどひどい内容の尾ひれが付けられていると思います。
上田哲氏は「「宮澤賢治論」の再検証(二)<悪女>にされた高瀬露」で儀府氏の文章についての解説と指摘をしているので、本サイト「資料室」1に置いてあります資料をご覧下さい。→こちら
私は上田氏の指摘については全くその通りだと思いますので何も言うことはありません。
次に、私が気になった部分を引用し、それについて意見・感想を述べたいと思います。
(1)
前後の状況ははっきりしないが、あるとき賢治は、内村康江に蒲団を贈った。なにかの返礼としてであった。(中略)
内村康江の胸はとどろき揺れ、夢に夢みるここちになった。胸のところに組んだ手を押し当てて、「もう決ったわ」と彼女は叫んだ。叫びながら今までの迷いを一擲して、宮沢賢治との結婚を敢然と決意した。いや、かっきりと決意をあらたにしたのは、このときだったと思われる。
(2)
Cが賢治を訪ねて花巻へきたこと、賢治がC兄妹の招きに応じて大島へいったこと……普通ならばだいたいこの辺の動きで断念し、おとなしく身をひきそうなものだが、聖女のさました人は逆だったらしい。相手のCは、自分のように働いて食べるのが精いっぱいだという職業婦人ではなくて、名も富も兼ねそなえた恵まれた美しい女性であるということがシャクだった。それにもまして、賢治がCに奔ったのは、どっちがトクかを秤にかけて、打算からやったことだと邪推し、恋に破れた逆恨みから、あることないこと賢治の悪口をいいふらして歩くという、最悪の状態に陥ったのだと考えられる。
(注・聖女のさました人とは高瀬露、Cは伊藤チエを指しています。)
幾度も言われていますが、これらは儀府氏が高瀬露にその時の心情を聞いて書いたものではなく、
上田氏の言う「下劣な」「心情の表現」の一つなのです。
「胸のところに組んだ手を押し当てて「もう決ったわ」と彼女は叫んだ。」の部分では、
失礼ながら脱力と共に失笑が漏れるほどです。
蒲団を贈ったという「前後の状況がはっきりしない」のならばなぜ裏付け取材を行なわなかったのでしょうか。
「賢治がCに奔ったのは、どっちがトクかを秤にかけて、打算からやったことだと邪推し」と述べていますが、「内村康江の胸はとどろき揺れ、夢に夢みるここちになった。胸のところに組んだ手を押し当てて、「もう決ったわ」と彼女は叫んだ。叫びながら今までの迷いを一擲して、宮沢賢治との結婚を敢然と決意した。」や、「相手のCは、自分のように働いて食べるのが精いっぱいだという職業婦人ではなくて、名も富も兼ねそなえた恵まれた美しい女性であるということがシャクだった。」など、真実を調べないばかりか高瀬露(内村康江)の心情にズカズカと立入り、勝手に決めつけて書いている儀府氏のその行為は、賢治の心情を邪推し悪口を言いふらしたという幻の人物「内村康江」の醜悪な行為と同等ではないでしょうか。
また、「相手のCは、自分のように働いて食べるのが精いっぱいだという職業婦人ではなくて、名も富も兼ねそなえた恵まれた美しい女性であるということがシャクだった。」という記述には儀府氏の、高瀬露を伊藤チヱの引き立て役に仕立てたい思いや高瀬露に対する蔑視が垣間見えるようで非常に気分が悪くなります。
確かに「名も富も兼ねそなえた恵まれた美しい女性」である伊藤チヱと自分を比べて嫉妬し、「賢治もそう思っているに違いない」と思い込むのはいじけた醜い考えですが、高瀬露は果たしてそうだったでしょうか。
それはこのエントリやこのエントリで挙げた周囲の人々の評判を見ればすぐに判ることと思います。そのようないじけた醜い考えを持つ者は、周囲の人々に「仕事熱心で真面目」という評価を受けたり長く慕われたりしないはずです。
因みに、高瀬露がカトリックに転会した際に霊名として選んだ聖モニカは、既婚女性、母親のほかに児童教育の守護聖人でもあります。(参考資料:「Truth In Fantasy 33 守護聖人 聖なる加護と聖人カレンダー」真野隆也・著 新紀元社)
彼女は聖モニカの信心深さと生き様に心打たれその名を選んだのだろうし、守護対象については全くの偶然なのでしょうが、彼女にふさわしい偶然であると私は思います。
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