
高瀬露だけでなく、宮沢賢治に関わった(親族以外の)女性はプロフィールに不明な部分が多いです。
ある程度明かされているのは高瀬露と、賢治の想い人だとされている伊藤チヱだけでしょう。
このエントリでは、高瀬露のプロフィールの資料を比較したいと思います。
まず、「校本宮澤賢治全集」(以下、「校本」)及び「【新】校本宮澤賢治全集」(以下、「【新】校本」)に掲載されている高瀬露のプロフィールを引用します。
(「校本」は管理人の手元にないので、小倉豊文氏の著書「宮沢賢治「雨ニモマケズ手帳」研究」に引用されている部分を使用させて頂きます)
高瀬露(一九〇一(明治三十四)一二・二九 一九七〇(昭和四五)二・二三)は湯口村鍋倉の宝閑小学校教師。妹タキも同じ学校に勤めたことがある。
一九二四、五(大正一三、四)年ころ、農会主催の講習会がたびたびあり、農学職員が同小学校で農民を指導したので、賢治と顔見知りであった上、花巻高女音楽室で土曜午後にしばしば行われていた音楽愛好者の集いに出席していた。この集まりは藤原嘉藤治(独身で若い女性のあこがれだった)を中心に演奏をし、レコードを鑑賞し、音楽論をたたかわす楽しい会で、賢治は授業がすむと必ず現われ、藤原とのやりとりで女性たちを興がらせた。
賢治が独居自炊をはじめた下根子桜の近く、向小路に住んでいた関係もあり、洗濯物や買物の世話を申し出たという。
クリスチャンで教育者であり、明るく率直な人柄だったので、羅須地人協会に女性のいないこともあり、劇のけいこなどには欠かせない人であった。
(中略)しかし彼女の情熱が高まると共に賢治の拒否するところとなった。顔に墨を塗って「私はライ病ですから」といい、高瀬はあまりの仕打ちに同級生であった関徳弥(登久也)夫人に訴え、それを知って関家に釈明にいき、父から説教を喰う結果となった。
彼女との関係、立場などは書簡下書(書簡252a~c、本巻二八頁~三五頁)で察することができる。
高瀬は後幸福な結婚をした。
高瀬露(一九〇一<明治三十四>年一二月二九日生、一九七〇<昭和四五>年二月二三日没)は当時湯口村鍋倉の宝閑小学校訓導。妹タキも同じ学校に勤めたことがある。
(同文のため中略)
しかし彼女の情熱が高まると共に賢治の拒否するところとなった。彼女との関係、立場などは書簡下書(書簡252a~c、本巻二八頁~三五頁)で察することができる。
高瀬は後幸福な結婚(小笠原と改姓)をした。
戦前は小学校訓導、戦後は小学校養護教諭として、昭和三十五年の退職まで長らく教育者としての生涯を送った。
なお、「イーハトーヴォ」四号(昭和一五年二月二一日)および一〇号(昭和一五年九月二一日)に、高瀬の短歌「賢治先生の例に捧ぐ」(〔推定〕)、「賢治の集ひ」と執筆者紹介記事が掲載されている。
「【新】校本」側は多少の補足があり、「高瀬が賢治の仕打ちを関夫人に訴えた」云々の記述は本文に移動しています。
これに対し、上田哲氏が「賢治をめぐる女性たち 高瀬露を中心に」(以下、「女性たち」・「図説 宮沢賢治」所収)に記した高瀬露のプロフィールを次に引用します。
露は一九二一年(大正十)九月二十六日、花巻のバプティスト教会で佐藤右衛門牧師から受洗、結婚のため一九三二年(昭和七)三月三十一日付で五年間務めた宝閑尋常小学校を退職、同日付で上閉伊郡の上郷尋常高等小学校に転任した。四月十一日、小笠原牧夫と結婚。その地域を管轄する遠野のバプティスト教会(現・日本キリスト教団遠野教会)に転籍し、小笠原露の名で会員名簿に登載される。一九五一年、カトリックに転会、三月二十五日、アグネスY.Mを代母にしてモニカの霊名を選び、フランツ・ガイッセル神父より「帰正の洗礼」を受け、一九七〇年七月、帰天している。
彼女のキリスト者としての生活はきびしく、子女のキリスト教教育も立派なものであったと彼女を知る人びとは口をそろえていう。次女はゲオルグの聖フランシスコ修道会の修道女である。
このごく簡単なプロフィールに、「校本」及び「【新】校本」との違いを一点見つけることができます。それは高瀬露の亡くなった月です。「校本」「【新】校本」には「二月二十三日」とありますが、「女性たち」は「七月」と記しています。
上田氏は1996年12月発行の「七尾論叢」第11号に、「「宮澤賢治論」の再検証(二)<悪女>にされた高瀬露」」(以下、「再検証(二)」)という論文を発表され、そこにはさらに詳しい高瀬露のプロフィールが記載されています。
生年月日や経歴については「校本」「【新】校本」と大した違いは見られませんが、その他の点(半生、人柄など)において相違が多々見られ、大変興味深いです。
次エントリではまず没年月日の相違について記します。