
「頻繁な訪問についての考察(2)」に、2007年11月15日、花巻市在住の風屋様から貴重なコメントを頂きました。風屋様には改めて御礼申し上げます。
風屋様のコメントによりますと、上田哲氏の論文にて述べられていた熊堂古墳群の近くにある小学校は湯口小学校上中分教場という学校で、高瀬露の勤務校であった寳閑小学校はそれより西方2~3km離れた場所にあったそうです。
また花巻市街地から寳閑小学校のある西方の村へは花巻電鉄という賢治の詩にも描かれている電車が走っていました。
上田哲氏はこれを見落とされていましたが、恥ずかしいながら私も、調査不十分で花巻電鉄の存在を見落としたまま記事を書いておりました。注意が至らず、誠に申し訳ありませんでした。
当エントリでは、風屋様から頂いたコメントをもとに改めて、高瀬露が通勤に花巻電鉄を利用していたことを考えた上で再度「頻繁な訪問」が本当にあったのかを考えていきます。
まず、花巻電鉄ですが、Wikipediaによると
花巻電鉄 (必要箇所だけ転載)
路線データ
1965年当時
■路線距離:総延長26.0km
■西花巻~花巻温泉間7.4km(花巻温泉線、鉄道線)
■中央花巻~西鉛温泉間18.6km(鉛線、軌道線)
■駅数:総27駅
■鉄道線:7駅(西花巻含む)
■軌道線:21駅(西花巻含む)
(後略)運行概要
1934年12月当時
■鉄道線
■運行本数:花巻~花巻温泉間13往復
■所要時間:全区間22分
■軌道線
■運行本数:花巻~西鉛温泉間6往復半(他、朝の大沢温泉~花巻間と夜の西鉛温泉~大沢温泉間に上り各1本)
■所要時間:全区間1時間34分~1時間36分
(後略)駅一覧
軌道線
中央花巻 – 西花巻 – 西公園(旧花巻川口町) – 石神 – 中根子 – 熊野 – 新田 – 歳の神 – 一本杉 – 二ツ堰 – 神明前 – 松原 – 松倉 – 富士保前 – 志戸平温泉 – 渡り – 大沢温泉(旧湯口) – 前田学校前 – 山の神 – 高倉山温泉 – 鉛温泉 – 西鉛温泉鉄道線
西花巻 – 花巻(通称電鉄花巻) – 花巻グランド前 – 瀬川 – 北金矢 – 松山寺前 – 花巻温泉
(後略)
とあります。
花巻市街地から西方の村へと延び高瀬露が通勤の足としたのは軌道線(鉛線)であり、高瀬宅・羅須地人協会からの最寄り駅は西公園停車場と考えられ、寳閑小学校からの最寄り駅である一本杉停車場まで5つの停車場を経由します。両停車場間の所要時間は単純計算ですがおよそ20分前後でしょう。
そして、高瀬宅・羅須地人協会~西公園停車場、寳閑小学校~一本杉停車場の所要時間も(徒歩で)およそ20分ほど。
片道の所要時間は最低約1時間かかります。まして、1934年(昭和9年)当時の軌道線の運行本数は6往復半しかありません。2時間に1本くらいの割合でしょうか。
高瀬露が賢治を頻繁に訪ねていたとされる大正15年~昭和2年頃はまだ少ないか、良くても昭和9年と同じくらいだったでしょう。往復の移動で約2時間プラス電車の待ち時間プラス羅須地人協会に居る時間を考えると……。
電鉄を利用したとしても、一日3回以上の訪問はやはり無理があります。昼休みを利用したとしても間に合いません。
出勤前・退勤後の2回程度の訪問なら出来ないこともありませんが、それを毎日、というのもやはり難しいのではないでしょうか。退勤時間と電鉄乗車のタイミングが合えば良いのですが、合わなければ、羅須地人協会に立ち寄って帰るような時間ではなくなってしまいます。
悪評系テキストは彼女を西方の村、すなわち寳閑小学校近辺に住んでいたとして「一日に二度も三度も訪問した」としていますが、むしろそちらの方が大変ではないでしょうか。
無理を押して訪問するということもあったかも知れません。1927年(昭和2年)の6月上旬、高瀬露は紹介者である高橋慶吾氏に「高橋サン、ゴメンナサイ。宮沢先生ノ所カラオソクカヘリマシタ。ソレデ母ニ心配カケルト思ヒマシテ、オ寄リシナイデキマシタ。(後略)」という内容のハガキを出しています(本サイト資料室より)。
「オ寄リシナイデキマシタ」というのは、これまでは羅須地人協会を訪問した後は高橋氏にそのことを報告していたが、この日は母親が心配するほど遅い帰宅となってしまうので報告しなかったということでしょう。
ハガキでこのことを報告するということ、そしてハガキの内容を良く読んでみると、夜の訪問は滅多にしなかった、というよりこの時が初めてだったのではないかと思います。
賢治の「女一人デ来テハイケマセン」という言葉も、高瀬露に辟易してというよりはむしろ男性が一人で住んでいる家にこんな時間に女性が一人で来ることで招く誤解により高瀬露に(もちろん自分にもでしょうが)変な噂が立つことを心配して、そして帰路での身の安全を慮っての言葉のように思えるのです。