「中傷行為」伝説について考える(7)

中傷伝説の正体?

前エントリでは、新たに出て来たこの問題の疑問は、

・高瀬露の中傷行為について、断定調で語っているのは関登久也氏のみ

ということであり、

・1930(昭和5)年10月初めに、高瀬露が関宅を二度訪れたという出来事

にその鍵がありそうだと述べました。

まずは、関氏の日記の内容を引用します。

昭和5年10月4日
「夜、高瀬露子(露のこと)氏来宅の際、母来り怒る。露子氏宮沢氏との結婚話。女といふのははかなきもの也」

昭和5年10月6日
「高瀬つゆ子氏来り、宮沢氏より貰ひし書籍といふを頼みゆく」
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なぜ高瀬露は賢治からもらった本を返しに直接賢治・宮沢家を訪ねず、関家に来たのでしょうか。
前述した通りあれだけの押し掛け行為や好意の押し付けを平気で出来るような人なら、わざわざ関家へ行かず、堂々と宮沢家に行くことも出来たでしょう。そのことも絡めながら、日記の記述をもとに「中傷行為」の正体について考えて行こうと思います。

10月4日の件について。
賢治の実家及び親戚では高瀬露は良く思われてないでしょうから、高瀬露の顔を見て関氏の母親が「あなた何しに来たの!」と怒るのも無理はないことでしょう。しかし、怒られても抜け抜けと「私、宮沢先生と結婚します」なんて言えるでしょうか。
いや、あれだけの押し掛け行為や好意の押し付けを平気で出来るような人……ひどい言い方をすれば「面の皮の厚い人」ならそれも出来るでしょう。
それよりも、このエントリでも述べたように、宮沢家にではなく関家に来てそういう話をするというほうが不自然です。

「結婚話」というのは、賢治とではなく小笠原牧夫氏とのことではないのでしょうか。挙式の日(昭和7年4月7日)を考えてもそれが自然な気がします。
もしかすると高瀬露は、この日関家に来たのは関氏ではなくナヲ氏と話をするためであり、その内容は小笠原氏との結婚を決心したということだった、しかし「結婚を決めました」とだけ発言しその相手が小笠原氏であることをナヲ氏はそれを知っていた、などの理由で省いてしまったのではないでしょうか。

それを聞いた関氏は……「女といふのははかなきもの也」という記述にも見られるように高瀬露のことを「怒られても抜け抜けと賢治との結婚話が出来る面の皮の厚い女」と思っているでしょうから、この話を「賢治とのこと」と思い込んでしまった。あのように記述したのではないかと思います。

10月6日に本を返しに来たというのは、賢治との結婚を諦めたというより小笠原氏に嫁ぐに伴い花巻を離れることになる、そして何より、自分が宮沢家に来ることで賢治に迷惑をかけてしまうことを考えての行動にすぎなかったのではないかと思います。

怒られても「私は宮沢先生と結婚します」などと言えるほど面の皮の厚い人がたった2日で諦めるなんて、ちょっと変ではありませんか。「宮沢先生と結婚します」と発言したら「ふざけないでよ!」と怒られので諦めた、というのならまだ自然ですし、そうなると日記の記述は「夜、高瀬露子(露のこと)氏来宅の際、露子氏宮沢氏との結婚話。母来り怒る。……」となるでしょう。日記は出来事の順に記すのが普通ですから。

その際……4日か6日のどちらかで高瀬露は賢治とのことを話したのではないか、その中には多少愚痴のようなものも含まれていたのではないでしょうか。それに関氏が過剰反応して「悪口・中傷」と受け取り、後に著書でそう記すこととなったのではないでしょうか。

小倉豊文氏が聞いたという関夫人ナヲ氏の証言というのも、「そういえば、確かに露子さん賢さんのことをちょっと話してましたね」程度のものにすぎなかったのではないかと思います。

ところで、この日記が「賢治と高瀬露の間に結婚話があった」ことの証拠となると言われていますが、私はこのエントリに書いたことを理由に、その説を否定します。

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