「中傷行為」伝説について考える(6)

3.他の目撃者が現れない

では、その中傷はどのように伝わったのでしょうか。
森荘已池氏、儀府成一氏の文章ではあちらこちらに賢治の悪口を言いふらして回ったように書かれてあります。関登久也氏は「(高瀬露が)賢治の中傷ををしていた」と断定調で言っており、その妻ナヲ氏も下記引用文にあるようにその話をしていたようです。

(略)
その結果高瀬女史は賢治の悪口を言うようになったのであろう。この点、高橋(引用者注・高橋慶吾氏のこと)否定していたが、私は関登久也夫人(賢治の妹シゲの夫岩田豊蔵の実妹ナヲ)から直接きいており、賢治が珍しくもこの件について釈明に来たことも関から直接きいている。 

(小倉豊文「宮沢賢治「雨ニモ負ケズ手帳」研究」より)

小倉豊文氏は、「彼らが話したから確実だ」と言いたげに書いていますが、賢治側に立ちがちな親族のみの証言ではむしろ信憑性に欠けるでしょう。賢治と高瀬露の「ゴタゴタ」を知らない人々からもそれを聞くべきです。

このエントリでも述べたように人というのは悪い噂をすぐに信じる癖があり、また悪い噂というものは広まるのが早いものです。そういう話が本当にあったのであれば「そんな話を聞いた」という人が賢治と関わりのない人々からももっと沢山出てくるはずです。そういう人々からのそういう話を出さないというのはおかしな話です。それとも、そんな話は知らないという人が多くいたのにそれを隠しているということなのでしょうか。

また、あちらこちらに中傷して回ったというなら、それぞれに「誤解のないよう了解を求めに行」くはずですが、なぜ賢治は関氏だけにそのような話をしに行ったのでしょうか。

繰り返してしまいますが、この出来事を断定調で書いているのは関氏一人です。また、この出来事について「見た、聞いた」という証言も関氏と妻のナヲ氏のものしかありません。高瀬露の「愚行」についての唯一の情報提供者である高橋慶吾氏ですらこの「中傷行為」を否定しているのです。全ての真実を知っているのは、関氏だけのように見えます。

このエントリでも述べた、1930(昭和5)年10月の二回にわたる高瀬露の関家来訪にその鍵があるように思えます。次エントリでそれを考えたいと思います。

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