「中傷行為」伝説について考える(2)

本エントリから、前エントリで上げた中傷伝説についての疑問点を考えて行きます。

1.いつ起こったことなのかはっきりしない

「レプラ告白・居留守事件」や「ライスカレー事件」と同様この話もいつ起こったことなのかはっきりしていません。

本サイトの年譜に推定される時期を記載していますが、それには1928(昭和3)年・1929(昭和4)年頃としています。

上田哲氏は1932(昭和7)年と推定しているようですが、それは不自然だと思います。中傷行為の原因と考えられる出来事から約3年ほどの空白期間があるからです。

中傷行為というのはいざこざがあって間もなく始まるものであり、空白期間があったとしても数ヶ月単位というのが普通ではないでしょうか。3年も時間を置けばいい加減頭も心も冷えてしまうでしょう。

なので私は1928年か1929年のあたりと仮定します。

1928年の出来事とすれば、その理由は悪評系が想像する通り「レプラ告白・居留守事件」や「ライスカレー事件」での賢治の態度、そして伊藤チヱという女性に会いに大島まで行ったことを恨みに思って……というのが自然かも知れません。

しかし、1928年から……というのには少し引っかかる点があります。

というのは、賢治の残した手紙下書きから、月日不明ながら1929年には賢治と高瀬露の間に何通かの手紙のやり取りがあったとみられるからです。
その手紙の内容は、主に高瀬露の結婚話についての相談事であったようです。

相手の名前が判らないこの下書きが高瀬露宛てだったのかどうかははっきりしませんが、もしそんな手紙をやり取りしていたのだとすれば、1928年に中傷行為を始めたとは考えにくいです。
中傷するくらいの相手に、手紙を書いて送るなんてことはもちろんのこと相談なんて普通する気にはなれません。(※)

伊藤チヱとのことを嫉妬して……という点には多少納得いくものがあります。
賢治が大島に行く以前、伊藤チヱは一度兄と共に賢治のもとを訪れたことがあるようで、もしかしたらその時高瀬露と顔を合わせたということも考えられるし、高瀬露が伊藤チヱのことを気にかけないはずもありません。

しかしそれなら、翌年の手紙のやり取りがますます不自然になってしまいます。賢治と伊藤チヱは結局「発展以前の問題」で終わってしまいましたが、高瀬露もそのことを何らかのきっかけで知っていたのではないでしょうか。

では、手紙で気を引けなかったことを恨みに思って中傷を始めた……すなわち1929年からと考えるのがちょうどいいでしょう。

しかしここでも引っかかる点が出てきます。そこから関氏に了解を求めに行った1932年秋まで約3年もの間、賢治及び家族親族は何故中傷行為を放ったらかしにしていたのでしょうか。

また、その期間の高瀬露の行動や出来事に中傷行為と噛み合わないものもあります。何より賢治と高瀬露との間に手紙のやり取りがあったかどうかもはっきりと判りません。(※)

ここまでで新たな疑問が2つ出て来ました。

1-2.本人及び周りの者の対応がない
1-3.中傷行為後・もしくは中傷行為期間中の高瀬露

これはまた後で考えようと思います。

※本日「高瀬露宛て」の手紙下書きが本当に高瀬露宛てなのかどうか疑わしいという内容のエントリを上げましたので、この部分を訂正・追記しました。(2008年11月16日)

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