
これも有名なエピソードのひとつです。まずはそれに関連するテキストを悪評系文献から引用します。
賢治を慕う女の人がありました。勿論賢治はその人をどうしやうとも考へませんでした。その女の人が賢治を慕ふのあまり、毎日何かを持つて訪ねました。
(中略)
そしてそのたびに何かを返禮してた樣です。そこで手元にあるものは何品にかまはず返禮したのですが、その中には本などは勿論、布團の樣なものもあつたさうです。女の人が布團を貰つてから益々賢治思慕の念をつよめたといふ話もあります。後で賢治は其の事のために多少中傷されました。
(関登久也「宮沢賢治素描」より)
(略)
第三は亡くなられる一年位前、病氣がひとまづ良くなつて居られた頃、私の家を尋ねて來られました。それは賢治の知合の女の人が、賢治を中傷的に言ふのでそのことについて賢治は私に一應の了解を求めに來たのでした。
(関登久也「宮沢賢治素描」より)
(略)
宮沢賢治を、じぶんの愛情のとりこにしようとして、ついに果たさなかった女人は、いろいろ賢治について悪口をいってまわったものらしかった。そのことについて、とても肚ににすえかねることがあって関登久也を訪ねて、何かいいたくてやってきたのである。というのはその女人は関登久也夫人とは女学校で同級生であったというような関係もあった。
(森荘已池「宮沢賢治の肖像」より)
聖女のさました人(引用者注・高瀬露のこと)は逆だったらしい。相手のC(引用者注・伊藤チヱのこと)は、自分のように働いて食べるのが精いっぱいだという職業婦人ではなくて、名も富も兼ねそなえた恵まれた美しい女性であるということがシャクだった。それにもまして、賢治がCに奔ったのは、どっちがトクかを秤にかけて、打算からやったことだと邪推し、恋に破れた逆恨みから、あることないこと賢治の悪口をいいふらして歩くという、最悪の状態に陥ったのだと考えられる。
(儀府成一「宮沢賢治 ●その愛と性」より)
高瀬露が中傷行為を行ったということについて関登久也氏、森荘已池氏は割とシンプルに語っていますが、儀府成一氏はその動機について勝手な憶測まで混ぜています。
これに対して、上田哲氏はこう指摘しています。
関登久也は「賢治素描(五)」(『イーハトーヴォ』第十号)の中で、賢治が<亡くなられる一年位前>訪ねて来て、<賢治氏知人の女の人が賢治氏を中傷的に言ふので><賢治氏は私に一応の了解を求めに来た>と述べている。賢治が関を訪問、<知人の女の人>が賢治の中傷をしていることについて誤解されないよう了解を求めたことを否定しないが、賢治は、その女が中傷している現場を見聞したのではなく、賢治を中傷している女がいるという人の話を、信じただけのことである。
関は、あからさまに高瀬露とはいっていないが、多くの人はそう受けとめている。しかし、当時の彼女は、賢治の中傷をして歩くために花巻まで出かけられるような状況ではなかった。彼女のいた上郷村は、遠野から村二つ隔てた東方八キロの地点にあり、遠野駅までの通常の交通手段は徒歩であった。花巻までは、当時は二時間近くかかった。本数ももちろん少なかった。朝出ても、ちょっと用事が手間どると泊まらなければならなかったと聞いている。また、そのころ長女を懐妊していて、産休はなく、年休のかわりに賜暇はあったが、文字どおり賜るもので、休みをいただくのは容易ではなかった。こんな状況なので体をいたわり遠出をさけていたという。そして新婚早々の生活に満足していたのである。
(河出書房新社「図説 宮沢賢治」所収「賢治をめぐる女性たち―高瀬露を中心に 」より)
この中傷伝説については疑問点がライスカレー事件同様いくつか上がってくるので、箇条書きにします。
- いつ起こったことなのかはっきりしない
- 具体的に何を言ったのか分からない
- 他の目撃者が現れない
疑問の内容もほとんどライスカレー事件と変わらないような気がしますが、ともあれ、次エントリでそれを考えて行こうと思います。