「レプラ告白」、居留守事件についての考察(3)

高瀬露は賢治の忠告に対して「信用されていなかったのか」と、戸惑いながらも言われた通りに訪問を控えるようにしました。

ただ「訪問を遠慮するようにした」というのは本人の弁であり、全てを信用できないかも知れません。

小倉豊文氏は「宮沢賢治「雨ニモマケズ手帳」研究」の中で、

しかし高橋氏(引用者注・高橋慶吾のこと)の話によると、この後も彼女の単独訪問は繁々続いていた。しかして、顔に灰を塗る(墨という人もあるが高橋氏は灰であるという)とか、戸棚にかくれるとか、不在と偽るとか、森荘已池が訪問すると、彼女の辞去後の室内の女臭さを嫌って風を入れたとか、同夜宿泊すると彼女が泊まったと間違われるのを慮って一夜中電灯をつけておいたとか(森著「宮沢賢治と三人の女性 昭和二十四年一月、人文書院刊、同講演「宮沢賢治と三人の女性」 昭和三十九年九月五日、盛岡市城西中学校に於ての自筆要旨 等)いった、むしろ奇矯ともいうべき賢治の行動は、何れも前掲の手紙以後であったと推定される。

と述べています。

但しこれは、「推定される」と結んであることからきちんとした検証を行い裏付けを取ったわけではなく、高橋慶吾の話を鵜呑みにした上での論述に過ぎないのですが。(後日考察しますが、これは悪評系テキスト共通の特徴です)

高瀬露はハガキの中で、高橋慶吾に対し賢治のもとを訪れたことやその詳細をきちんと報告し、「勝手なことをしてごめんなさい」とお詫びもし、紹介者である高橋慶吾への礼をきちんと尽くしています。

それに対し高橋慶吾は嘘八百を並べ立て高瀬露を悪人に仕立て、彼女を裏切るような行為をしたのです。(これも後日考察します)

とにかく、そこまで気を使える人が「女一人で来てはいけない」と言った賢治の気持ちを汲みとらずしつこく単独訪問を繰り返したなどとは到底考えにくいのです。

しかし、この居留守事件については、賢治の教え子である鈴木操六氏、伊藤忠一氏も「そういうことがあった」と証言されています。

ただ、高橋慶吾と共謀してそのような証言をした、ということも考えられるのです。はっきりそうだとは言い切れませんが、これについて証言しているのは高橋慶吾を含むこの三人だけなのです。

そしてそういう話を作ることによって、羅須地人協会から人々の足が遠退いていった原因を高瀬露に被せようとする節も見られます。(これも後日考察します)

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