「レプラ告白」、居留守事件についての考察(2)

上田哲氏は、儀府氏の文章を中心に一連の出来事の伝説について以下のように指摘しています。

……あくる日の羅須地人協会の入口には、「本日不在」の木の札が下げられた。その木の札が、十日も掛けられっぱなしになっていることもあった。
(注・儀府は、羅須地人協会のあったころは、賢治と交際がなく、一度も羅須地人協会を訪ねたことはない。)
居るすをつかい、嘘をつき、逃げかくれた。つかまると、賢治は顔じゅうに灰やスミを塗り、わざとぼろをまとって乞食の風を粧い、彼女の前にあらわれた。
(注・居留守も使えぬ不意打ちの訪問で顔を合せた賢治が一たん引込み台所に行き灰やスミを塗り、どこかでボロ服に着替えて露に逢ったということになる。儀府氏は、作家である。作家ならもう少しリアリティと説得性のあるフィクションを書いたらよかった。)

高瀬露の訪問が迷惑であるなら迷惑であるから来ないでくれと言うことも出来たはずである。現に、賢治が、訪ねて来た高瀬露に「女一人デ来テハイケマセン」といっているのである。これは、高瀬露が高橋慶吾に宛てた一九二七年<昭和二年六月九日>付消印のあるはがきに彼女自身が書いている。
(中略・はがきの内容はこちら参照)

賢治は、詩人として普通の人と違う変わった所があったかも知れないがそれほど常識はずれの人ではなかった。「本人不在」の札を出して居留守を装うような幼稚な姑息な手段を使うような卑屈な人だったのだろうか。「本人不在」の札を十日も出しっ放しにしておいたら大切な用事をもってきた人に迷惑をかけることがあるかも知れない。また自分にとっても不利益や困ったことが生ずることがあるかも知れない。こういうことに考えが及ばない莫迦な人だったのだろうか。ましてや顔に墨や灰を塗ったり、乞食の真似をしたり、レプラだといったり、その様な馬鹿げたことをしたであろうか。もし、そんなことをしたらE.K氏のいうような誇り高い女性だった高瀬露は、賢治を軽蔑して、没後賢治を師としてたたえる短歌を作ったり、生涯賢治を先生とよんだりはしなかったろう。

(6)仕方なく彼が帰ろうとすると、俄かに座敷の奥の押入の襖があいて、何とも名状しがたい表情の賢治があらわれ出たのであった。彼女の来訪を知って賢治は素早く押入の中に隠れていたのであった。

これは、高瀬露が来た気配で賢治が押入れに隠れた。そこへ教え子が訪ねて来た。賢治の姿が見えないので帰ろうとすると押入れからあわてて出て来たという。出てくるくらいなら隠れなくてもよかった。無意味な行動をしたものである。俗にいう阿呆なことである。賢治はそんなおろかなことをする人間だったのだろうか。

よく読んでみるといろいろ疑問点や矛盾点が出てくる。不自然な話である。
  (「七尾論叢11号」所収「「宮澤賢治論」の再検証(二)<悪女>にされた高瀬露」より)

しかし実際には、賢治は高瀬露に単独での訪問をきちんと注意していたのです。大の大人として当然の行動ではないでしょうか。

何より悪評系が述べるような一連の行動は非常識以外の何者でもありません。

ついこの間までは歓待してくれたのにいきなり居留守など使われては誰だって驚くだろうし憮然とした態度も出てしまうでしょう。まして彼女を遠ざける目的だけで「レプラである」などと嘘をつくなど、卑怯以外の何者でもない行為ではありませんか。

「嘘をついた人間とは頑として口を聞こうとしなかった」ほど嘘が嫌いな人だったはずの賢治がたかだかそのくらいの理由で、場合によっては冗談にもならないような嘘をついたりするのでしょうか。

「嘘も方便だ」と言われるかも知れませんが、それではあまりにもご都合主義が過ぎるのではないでしょうか。

高瀬露を貶めたいがための作り話を書くならば、賢治にはもう少し大人の対応をさせるべきだったのではないでしょうか?

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